田沼意次は本当に「ワイロ政治」をしていたのか? 江戸幕府にはびこる腐敗の構造とは
武元の取次・那波は、重村の側近が武元の用人のところに赴き「密事」について語ることを了解したのでした。
工作の第1段階は成功したと言えるでしょう。
一方、意次はどう対応したか
では、意次への接近はどうだったのでしょう。重村の側近・古田は、明和2年(1765)6月、意次の用人・井上寛司に会うこととなります。
仲介者がいて、それは意次の弟・田沼意誠(一橋家の家老)でした。同月30日、古田は意次の邸(呉服橋御門内)に出向きます。そして、用人・井上に会い、主君・重村からの時候の挨拶と、特別な用件について伝達するのです。
特別な用件とは、重村の側近・古田が、意次の邸に出入りすることを認めてほしいということでした。もちろん、何らかの意図を持って、重村方がそのようなことを言っているということに、用人・井上は勘付いたでしょう。
井上は、邸に戻ってきた主人・意次に、古田の言葉を伝えます。すると、意次は、古田が邸に出入りすることを認めたのでした。
もちろん、意次も古田が何かの意図を持って自邸に出入りしてくることは察したでしょう。意次は自らへの「工作」を認めたことになります。
古田は、主君・重村の要望を意次が了解したか否か問い合わせるため、翌日(7月1日)に意次邸を訪問したいと申し出ていました。これに対し、意次は「邸に出入りすることを承知した」と自身の用人・井上から古田に「書状で回答するので、訪問の必要はない」と指示します。
この意次の指示をもって、意次は賄賂の機会を放棄したとし、意次は金権政治家ではなかった、清廉な人物だったとする研究者の見解もあります。
確かに、意次は老中・松平武元のように、人目を忍んで邸に来いとは命じてはいません。しかし前述したように、意次は古田が自邸に出入りすることを自ら認めているのです。そうした意味で言うと、意次も武元も五十歩百歩といえるでしょう。
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