田沼意次は本当に「ワイロ政治」をしていたのか? 江戸幕府にはびこる腐敗の構造とは
7月1日に、古田が意次邸を訪問していたら、古田は賄賂を持参していたかもしれません。7月1日の「賄賂」を得る機会は逃していたというべきかもしれませんが、それ以降、古田の出入りを認めているわけですので、賄賂を得る機会はいくらでもあったでしょう。
伊達の工作は成功したのか?
仙台藩主・伊達重村は中将昇進を目指して、明和2年(1765)から工作を開始していますが、同年には成功しませんでした。
よって今度は、明和4年(1767)の昇進を目指して工作を続けます。意次の用人への工作、意次の弟への工作、大奥への工作の甲斐あって、明和4年、重村はついに念願の中将に昇進するのでした。
伊達家は中将昇進以外の件でも、意次や大奥などに工作をしています。その工作に際して、金品は伴っていたのでしょうか。
明和2年6月、伊達重村は、側近が幕府要人の邸に出入りしその用人と仲良くなるためには、伊達家の家法や格式に違反することがあっても容赦しなければならないと命じています。
それは直に書いてはいませんが、相手方に接待することや、金品・賄賂を送ることを容赦しなければいけないという意味でしょう。
賄賂を送って願望を叶えようとする大名と、その賄賂を受け取る幕府要人。意次だけが賄賂政治家のように言われてきましたが、決してそうではありません。賄賂がはびこる風潮というものが、意次が権力を握る以前から存在していたと言うべきでしょう。
(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)
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