「意次はクビ」田沼の推薦で将軍になれた徳川家斉が手の平を返して恩人を排除した非情な論理

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イメージ(写真:Ystudio / PIXTA)
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NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第34回は、田沼意次が11代将軍の徳川家斉によって罷免された背景について解説する。
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悩みに悩んで豊千代を世継ぎに決めた意次だったが……

10代将軍の徳川家治が死去すると、一橋治済の嫡男・豊千代が家斉と改名して、11代将軍に就任する。治済と家斉の親子は田沼派を一掃するべく、まずは田沼意次を老中から罷免した。

意次は悔しさに打ち震えたことだろう。なにしろ、家治の後継者を一橋家から出すことになった背景には、意次の意向が働いていたからだ。

家治の嫡男である家基が16歳の若さで急死すると、老中の意次が天明元(1781)年4月15日に「御養君(おんやしないぎみ)御用掛」を命じられる。次の世継ぎを誰にするのかを決める、という大役だ。

同じ任務を命じられた若年寄の酒井忠休や留守居の依田政次とともに、最高位の意次が中心となり「家治のもとに誰を養子に入れるべきか」の話し合いを重ねた。

大詰めになると、意次は神田橋御門内の屋敷に籠り、井上寛司や三浦庄司といった側近さえも遠ざけて、考えに考え抜いたらしい。そして、天明元(1781)年閏5月27日に豊千代に決まったことが発表される。

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