家斉にとって意次は、次期将軍に選んでくれた恩人であるはずなのに、いきなり罷免されるとはあまりに理不尽だ。
だが、「恩人だからこそ邪魔」というケースは過去にもあった。「生類憐れみの令」で知られる5代将軍の徳川綱吉がまさにそうだった。
5代将軍の綱吉が強権を振るった背景
綱吉が5代将軍の地位に就いたのは延宝8(1680)年、35歳のときのことである。
4代将軍で兄の家綱は子供ができないまま病死し、さらに、もうひとりの兄である綱重も急死してしまったため、綱吉にお鉢がまわってきたというわけだ。
とはいえ、綱吉は簡単に将軍の座に就いたわけではない。綱吉の前に立ちはだかったのは、前将軍の家綱を支えた大老・酒井忠清であった。家綱が病床にいる頃、忠清は綱吉が次期将軍の座に就くことに反対した。
『御当代記』によると、忠清は次期将軍候補として綱吉の名が挙がると、次のように言って異を唱えたという。
「綱吉様に天下を治める器量はない。綱吉様が将軍となったならば、民は困窮し、悪事がはびこり、世は混乱するだろう」
忠清は「家康様の子孫であれば、誰でもよいが」とまで言っていたとされている。
そんななか、家綱の病状が急変したため、綱吉が将軍の座を射止めることになった。忠清は大いに狼狽したことだろう。
将軍になった綱吉は、忠清に対して病気を理由に大老職を免じている。その後、忠清は自ら謹慎の姿勢を示すと、58歳で没した。
忠清の詳しい死因は不明だ。綱吉の将軍就任に反対したことと、関係しているかまではわからない。忠清は実際に病気がちだったため、大老職を免じられたあと、綱吉は忠清の嫡子である忠挙を面前に招いて「油断なく養生するように」と伝えている。内心はともかく、表向きは穏便に対処したようである。
ただ、みなに選ばれて将軍になったわけではないからこそ、「強いリーダーであらねば」という思いが、綱吉には強かったようだ。
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