綱吉にとって堀田がそうであったように、将軍の家斉や父の治済にとっても、意次は邪魔者以外の何物でもなく、すぐさま排除に動いたのはむしろ当然といえよう。
老中から外された意次が家臣に語ったこと
しかし、意次は老中から罷免されても、幕府から田沼家が改易されたわけではない。大名田沼家の存続は許されている。意次は老中から外れても、意気消沈することなく、一大名として生きていく決意を固めたようだ。
天明7(1787)年9月9日、家治の死去からちょうど1年が経って喪が明けると(公式に発表された家治の死亡日は天明6年9月8日)、69歳の意次は家中の者たちを集めて、朝夕と2度にもわたって、教諭を行っている。
突然の失脚劇を「まことに思いがけない事態で、困り果てた」と改めて振り返りながら、こうねぎらった。
「皆々もさぞ疲弊し、大変な目にあったことであろう。心外の至りだが、よくぞ我慢してつとめてくれた。満足に思っている」
これまでは膨大な公務にかまけて、田沼家内での規律が充分に行き届かなかった……と反省の弁を述べている。また、浪費しがちだった田沼家の体質を見直すとし、倹約も呼びかけている。そのうえで、こんな声かけも行っている。
「田沼家のためになること、ならないこと、思いついたことがあれば、役目の上下を問わず遠慮なく申し出てほしい」
これから田沼家を一から建て直していく。そんな気概にあふれるメッセージだ。
だが、その後も意次の処分は続く。「隠居」を命じられたうえに、相良城と相良領のすべてが没収されてしまった。すると意次は、9カ月後に迎える自分の死を予期していたかのように、遺訓を作り始めることになった。
【参考文献】
深谷克己『田沼意次 「商業革命」と江戸城政治家』(山川出版社)
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)
藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
辻善之助『田沼時代』(岩波文庫)
福田千鶴『日本史リブレット 徳川綱吉』(山川出版社)
福田千鶴『酒井忠清』(吉川弘文館)
塚本学『徳川綱吉』(吉川弘文館)
ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー、早川朝子訳『犬将軍―綱吉は名君か暴君か』(柏書房)
山室恭子『黄門さまと犬公方』(文春新書)
小川和也『儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉』(講談社)
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