選挙ファーストだった自公「異形の連立」、破綻の兆しは9月の選挙総括に見えていた…多党化時代の「欧州型連立」とは?ネット型政党という波乱要因

長年、当たり前のように続いていた自民党と公明党の連立が、突然、解消された。公明党の支援組織である創価学会の地方組織の幹部は私に、「理屈の通らない選挙応援からやっと解放され、本当にほっとしている」と語った。
4半世紀も続いた「自公連立」は主要先進国では極めて異例な形態だった。そもそも連立政権とは、国政選挙の結果、どの政党も多数派を形成できないときに、政策や思想の近い政党が安定政権を生むために作り出す。たいていは次の選挙までしか続かず、永続的なものではない。
ところが自公連立は、選挙の結果がどうなろうが初めから維持されることが前提という世界でも珍しいものだった。さらに特殊なのは衆参両院の選挙で選挙協力してきたことだ。両党が野党のときにも選挙協力は維持された。
つまり「自公連立」は、選挙結果を受けて安定政権を作る「欧州型連立」とはまったく別物の、選挙協力を主目的とし、その結果、安定した政権ができるという「選挙協力型連立」だったのだ。
26年前のなれそめは「大敗自民がアプローチ」
創価学会の政治部門から切り離されて公明党が結党したのは1964年だった。「大衆とともに」を掲げ、自民党とも社会党とも距離を置く現実主義的な政党だった。
一貫して野党の立場だったが、93年の政権交代では細川護熙首相を掲げる非自民連立政権に参加、その後も新進党に参加するなど自民党と対立する側にいた。
ところが新進党が政権奪取に失敗して97年に解党すると、公明党の立場は宙に浮いてしまった。一方の自民党は98年の参院選で大敗し過半数を割ってしまった。
そこで自民党は公明党に目をつけ、小渕政権時代の99年に連立が実現した。それとともに国政選挙での選挙協力も始まった。
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