「意次はクビ」田沼の推薦で将軍になれた徳川家斉が手の平を返して恩人を排除した非情な論理

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綱吉は大名の職務にも厳しく、政治に乱れがあれば、領民をきちんと統治していなかったとして、厳格に処分した。また、大名の独立性を決して認めず、徳川家一門の大名でも容赦はしなかった。綱吉によって改易・減封・転封された大名は、実に40を超えている。

堀田の殺傷事件で黒幕と噂された意外な人物

綱吉が本格的に独裁色を強めたのは、ある事件が起きてからである。

綱吉が将軍となった4年後の貞享元(1684)年、大老の堀田正俊が江戸城内で斬り殺されるという、ショッキングな事件が起きた。

堀田は酒井と同じく前将軍の家綱に仕えていたが、酒井とは対照的に堀田は、綱吉が将軍になることを支持していた。将軍となった綱吉もまた堀田を頼りにし、政務を任せていたなかでの、暗殺事件であった。

堀田を斬り殺した犯人は、若年寄の稲葉正休である。稲葉には特に動機が見当たらなかったため、幕府は事件の原因を「稲葉の発狂」とした。当の稲葉はその場で重傷を負い、帰宅後に死亡している。

堀田の死後、おのずと綱吉のもとに権力が集中していく。そんななか、こんな恐ろしい噂が流れる。綱吉が命じて堀田を暗殺させたのではないか、と。

事実、正俊の後を継いだ正仲は、江戸城近くの屋敷から移転させられたうえに所領も東北地方へ移され、中枢から遠ざけられた。さらに、甥の正親は1万3千石のうち8千石を召し上げられ、5千石は弟に分けられている。つまり、堀田家の面々は綱吉によって散々な目に遭わされている。

また、綱吉は正俊の死骸を埋めた方角に屏風を立てさせたり、正俊の石棺を一度掘り起こし、改めて深く埋め直したりもした。その姿は、まるで死者の霊を恐れているように見えたという。

自分が将軍の地位に就くことをバックアップしてくれた有力者は、恩人には違いない。しかし、それだけの影響力がある存在は、新しく治世を始めるにあたっては、何かと目の上のたんこぶになりがちだ。

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