《ズルい政治家を一網打尽》田沼意次が異例の出世を遂げる契機になった「江戸を騒がす大事件」とは

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皇居 (江戸城)伏見櫓と二重橋
皇居 (江戸城)伏見櫓と二重橋(写真:show999 /PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は渡辺謙さん演じる田沼意次が異例の出世を遂げる契機になった事件について解説します。
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家重に気に入れられ将軍の相談役に

徳川幕府の老中となった田沼意次の父・意行は、小姓そして幕臣(旗本)として、8代将軍・徳川吉宗に仕えてきました。

その子・意次は、吉宗の後継者・徳川家重の小姓としてキャリアをスタートさせます(1734年)。同年12月に父・意行が亡くなったことから、享保20年(1735)3月、意次が父の後継として知行(600石)を相続します。意次は17歳でした。その2年後、意次は旗本が叙任される最高位の官位である従五位下となります。

そんな意次のさらなる飛躍の年となったのが、延享2年(1745)です。同年9月、8代将軍・吉宗は将軍職を子の家重に譲り、自らは大御所として君臨。家重はそれまで江戸城西の丸にいましたが、本丸に移居することになります。

それに伴い、家重の「西の丸小姓」であった意次らも本丸勤めとなるのでした。つまり、意次は将軍の小姓となったのです。翌年(1746年)7月、意次は小姓頭取(小姓の頭)に就任します。家重に気に入られていたのでしょう。

小姓というのは、主君の身辺の世話をしたり、話し相手となったりというのが主な仕事ですが、意次は延享4年(1747)、小姓組番頭格でありつつも、御用取次見習に異動となります。

元々、幕府には側用人(将軍に側近く仕えて、将軍の命を老中に伝達し、また老中の上申を将軍に取り次ぐ役)という要職が存在していました(5代将軍・徳川綱吉の時代に創設。その頃の側用人として、柳沢吉保が有名)。

しかし、8代・吉宗の時代になり、側用人は廃止されてしまいます。その代わりに創設されたのが、御用取次という役職です。

将軍に近侍し、将軍と老中以下の役人との取次役であり、将軍の相談役でもありました。重要かつ実権がある役職と言えるでしょう。その御用取次の見習に意次は任命されたのです。

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