《ズルい政治家を一網打尽》田沼意次が異例の出世を遂げる契機になった「江戸を騒がす大事件」とは

家重に気に入れられ将軍の相談役に
徳川幕府の老中となった田沼意次の父・意行は、小姓そして幕臣(旗本)として、8代将軍・徳川吉宗に仕えてきました。
その子・意次は、吉宗の後継者・徳川家重の小姓としてキャリアをスタートさせます(1734年)。同年12月に父・意行が亡くなったことから、享保20年(1735)3月、意次が父の後継として知行(600石)を相続します。意次は17歳でした。その2年後、意次は旗本が叙任される最高位の官位である従五位下となります。
そんな意次のさらなる飛躍の年となったのが、延享2年(1745)です。同年9月、8代将軍・吉宗は将軍職を子の家重に譲り、自らは大御所として君臨。家重はそれまで江戸城西の丸にいましたが、本丸に移居することになります。
それに伴い、家重の「西の丸小姓」であった意次らも本丸勤めとなるのでした。つまり、意次は将軍の小姓となったのです。翌年(1746年)7月、意次は小姓頭取(小姓の頭)に就任します。家重に気に入られていたのでしょう。
小姓というのは、主君の身辺の世話をしたり、話し相手となったりというのが主な仕事ですが、意次は延享4年(1747)、小姓組番頭格でありつつも、御用取次見習に異動となります。
元々、幕府には側用人(将軍に側近く仕えて、将軍の命を老中に伝達し、また老中の上申を将軍に取り次ぐ役)という要職が存在していました(5代将軍・徳川綱吉の時代に創設。その頃の側用人として、柳沢吉保が有名)。
しかし、8代・吉宗の時代になり、側用人は廃止されてしまいます。その代わりに創設されたのが、御用取次という役職です。
将軍に近侍し、将軍と老中以下の役人との取次役であり、将軍の相談役でもありました。重要かつ実権がある役職と言えるでしょう。その御用取次の見習に意次は任命されたのです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら