「紀伊・和泉28万石を領有」も秀吉の直臣には手出しができず…羽柴秀長の【意外に窮屈】な領国支配

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秀長の領国支配には「秀吉による関与」が存在していたという(写真:ふくいのりすけ/PIXTA)
豊臣秀吉の天下統一を支えた弟の秀長は、兄からの信頼も厚く、紀伊・大和を中心に多くの所領を与えられましたが、駿河台大学法学部教授の黒田基樹氏によれば、その領国支配の実情は多くの制約を受けたものだったそうです。
後の初期徳川政権における「国奉行」制にも通じる、「秀吉―秀長ライン」による領国支配の実態とはどんなものだったのでしょうか。黒田氏の共著『豊臣秀長 戦国最強のナンバー2のすべて』から一部を抜粋・編集する形で解説します。

領国内の国衆に認められた「守護不入」の特権

秀長は、天正13年(1585)4月28日に、紀伊・和泉を領国として与えられたことをうけて、紀伊有田郡の国衆で秀吉に服属していた白樫左衛門尉に、秀吉の意向をうけて4カ条の覚書を与えている。

内容は、①紀伊南部侵攻について褒美を与えること、②雑賀のうち岡口(和歌山市)を調略したら同地を与えること、③先に与えた所領についてはすべて「守護不入」の特権を認めること、④紀伊の支配者が誰になったとしても、白樫の立場は秀吉の直臣であること、というものであり、秀長は、それらの内容を、秀吉の「仰せ」をうけて、覚書として与えている。

(出所:『豊臣秀長 戦国最強のナンバー2のすべて』より)

※外部配信先では図表を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください

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