「紀伊・和泉28万石を領有」も秀吉の直臣には手出しができず…羽柴秀長の【意外に窮屈】な領国支配

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これらのことから、紀伊・和泉での秀長の領国支配とは、いわば秀吉直臣所領以外について、おおよそ一国に対する諸役の賦課権、検断権(治安維持)や裁判権などの行使を認められたものであった、と考えられる。

秀吉直臣にも軍事行動を指示した「四国攻め」

続いて秀長は、天正13年の5月8日に、秀吉から四国攻めの準備に関わって書状を送られ、出陣の準備について指示された。

そこでは、秀長は軍勢の半分を動員して出陣すること、和泉堺(堺市)より南の和泉・紀伊の各浦から、扶持料を与えて船を徴発すること、紀伊熊野衆については新宮領(新宮市)の堀内氏善を含めて残らず動員すること、などを述べられている。

さらに同日、秀吉は紀伊の白樫左衛門尉と玉置氏(大膳介か)に直接、秀長の指示をうけて四国攻めの出陣をすることを命じていて、秀長も白樫(おそらく玉置にも)に書状を出して、秀長に同陣して進軍することを指示している。

そして秀長は早速、翌日の9日に、堺浦より南の和泉・紀伊の各浦に、船について一艘も隠さず、扶持料を与えることを示したうえで、今月27日、28日までに紀伊紀湊(和歌山市)に船を漕ぎ寄せることを命じている。すなわち和泉・紀伊の各浦から、軍勢・物資運搬のための船を動員する命令を出している。

これらから秀長の紀伊・和泉支配について、2つの事柄を認識できる。

1つは、堀内ら紀伊在国の秀吉直臣は、秀長の軍事指揮下に置かれたこと、すなわちその与力に付属されていたこと、そのため秀長は、秀吉の命令を前提に、彼らに軍事行動を指示したことである。

もう1つは、秀長には、紀伊・和泉について、軍事行動での船の徴発が認められていたこと、である。

この時に、秀長の船動員命令が適用されなかったのは、秀吉直轄支配下にあった堺だけであった。それ以外の浦については、たとえ秀吉直臣の所領であったとしても、動員の対象にされていた。

秀長は紀伊・和泉両国を領国として与えられたものの、両国の全域が自身の所領とされたわけではなく、秀吉直臣の所領や、秀吉から直接に所領を与えられた寺社領が存在していた。

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