「紀伊・和泉28万石を領有」も秀吉の直臣には手出しができず…羽柴秀長の【意外に窮屈】な領国支配

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それらの内容は、白樫の身上や特権を保証するものであり、それを実際に秀長が出しているということは、秀長がそれら紀伊の国衆統制にあたったことを意味している。

白樫は、この年の1月に秀吉にいち早く服属の意向を示していて、秀吉から有田郡・日高郡・南郷のうち大野庄・野上山・東郷(海南市)を所領として安堵されている。

秀長が紀伊を領国としても、それらの所領はそのまま秀吉から安堵されたとみられる。しかもそれらの所領については、「守護不入」の特権が認められた。

ここでの「守護」は、領国支配者を意味し、この場合では秀長を指す。

秀長は、領国支配者として領国に普請役などの諸役を賦課する権利を持っていたが、「守護不入」は、それらの賦課を免除される特権にあたった。しかも白樫の立場は、あくまでも秀吉の直臣とされている。

この後、白樫は秀長の軍事指揮をうけるが、その立場は秀長の家臣ではなく、秀吉の直臣であることが保証されている。

ここから秀長の紀伊・和泉支配の重要な性格を認識できる。秀長は、紀伊・和泉を与えられたとはいっても、2カ国すべてを所領として与えられたのではなかった。

秀吉の「直臣所領以外」についての領国支配

2カ国には、秀吉から直接に所領を与えられた、秀吉の直臣が存在した。そしてその所領には、秀長の支配権がおよばない「守護不入」の特権が認められた場合があった。その場合、秀長は、それらの所領に諸役を賦課することはできなかった。

このことから、秀長は紀伊・和泉すべてを所領としたのではなく、そのため両国合わせて28万石という領知高も、実際にはそれにはいたらなかったとみられる。秀長が与えられたのは、秀吉直臣の所領以外についてであった、と考えられる。

紀伊にはそのように、秀吉の直臣とされた者に、他に玉置氏・堀内氏善や寺社などがあった。それら紀伊地付きの領主は秀長に与力として付属された。

和泉にも、秀吉直臣の所領がかなり設定されていて、しかも小出秀政・石川吉輝は、秀長の与力にもされなかった。

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