「紀伊・和泉28万石を領有」も秀吉の直臣には手出しができず…羽柴秀長の【意外に窮屈】な領国支配

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それらの所領には、秀吉から「守護不入」の特権が与えられる場合がみられ、その場合には、秀長の領国支配権はおよばなかった。

初期徳川政権の「国奉行」制に通じる性格

その一方で、秀長は領国統治者として、各浦への船徴発にみられる、両国に対する一斉的な公事(租税・負担)を賦課する権限があった。

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この場合、「守護不入」所領に対してはどうであったのかは、具体的な史料がないから確定できないが、その船徴発の場合をみると、公事の内容によっては「守護不入」所領にも賦課できた場合があったととらえられる。

したがって秀長の領国支配の性格は、領国一円を排他的に統治するものではなく、政権主宰者の秀吉による関与が存在していたものととらえられる。

こうした性格の領国支配は、例えば戦国大名相模北条家の場合で、「支城領」支配と定義されているものにあたる。またその後の初期徳川政権における「国奉行」制に通じるものとみなされるだろう。

もっとも羽柴(豊臣)政権、続く徳川政権(江戸幕府)においても、政権による領国支配への関与が全くみられなかった、外様大大名による領国支配も存在していた。その領国統治の性格は「自分仕置権」と定義されている。

それと比べると秀長の領国支配は、あくまでも政権の管轄下に位置付けられたものととらえられる。

羽柴政権においては、一門衆の領国支配は、完全に自立したものではなく、政権による直接的な関与がみられる性格にあった、ととらえられる。

黒田 基樹 駿河台大学法学部教授

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くろだ もとき / Motoki Kuroda

1965年、東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。駒澤大学人文科学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。博士(日本史学)。現在、駿河台大学法学部教授。『百姓から見た戦国大名』(筑摩書房)、『下剋上』(講談社)、『国衆』『家康の正妻 築山殿』『増補 戦国大名 政策・統治・戦争』(すべて平凡社)、『羽柴を名乗った人々』『関東戦国史 北条vs上杉55年戦争の真実』『家康の天下支配戦略』『羽柴秀吉とその一族』(すべてKADOKAWA)ほか著書多数。

NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)、2026年放送の同『豊臣兄弟!』の時代考証を担当する。

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