《ズルい政治家を一網打尽》田沼意次が異例の出世を遂げる契機になった「江戸を騒がす大事件」とは
将来、有望だと言えます。そのことを証明するように、意次の知行も増えていき、御用取次見習在職中は知行2000石となりました。寛延元年(1748)には小姓組番頭と御用取次見習を兼任します。その際、1400石を加増されるのです。そしてついに3年後の宝暦元年(1751)7月、意次は御用取次に任命されるのです(見習ではなくなったのです)。
宝暦5年(1755)にはさらに3000石を加増され、合計5000石の上級旗本に昇りつめるのでした。宝暦8年(1758)9月、意次は幕府評定所への出席を命じられ、幕政に関与することになります。御用取次の役職にありながら、評定所に出座を命じられるというのは珍事でした。
幕府の‟最高裁判所”で事件の処理を任される
当時、幕閣の頭を悩ましていたのが、美濃郡上一揆の処理でした。美濃郡上藩(金森家。3万8000石)は財政の窮迫から、年貢の取り立て方式を変更しようと企図したのです。すなわち、定免制から検見取制へ変えようとしたのです。
定免制とは、その年が豊作か凶作かに関係なく、過去数年間における収穫高の平均を基準に、一定期間、同じ年貢量を課する方法のことです。
一方、検見取制とは、田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法のこと。定免制から検見取制に変更となることにより、年貢が重くなることを危ぶんだのが、郡上藩の領民たちでした。
領民は検見取制になることを阻止しようと強訴したり、江戸にて老中に駕籠訴(幕府高位の人が駕籠に乗り通るのを待ち受けて、訴状を投げ入れること)したり、さまざまな取り組みをします。
そこに、郡上藩の預かり地であった越前国大野郡石徹白の白山中居神社の神職の対立(石徹白騒動)が起こり、郡上藩は混乱。
領民の一揆と前述の騒動が勃発したことで、幕府はこの事件を評定所で審理することにします。将軍・家重はこの事件に、幕府の要職にある者が絡んでいるのではないかと疑念を持っていたようです。
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