《ズルい政治家を一網打尽》田沼意次が異例の出世を遂げる契機になった「江戸を騒がす大事件」とは
さて、意次が評定所に出座を命じられた1758年9月には、老中や若年寄が次々に罷免されています。9月2日には、老中・本多正珍(駿河国田中4万石)が罷免。9月14日には、西の丸若年寄・本多忠央(遠江国相良1万石)が罷免。前者の正珍の妹は、郡上藩主・金森頼錦と婚約していました(その妹は嫁ぐ前に病死)。その縁もあって、金森は老中・正珍に郡上藩年貢徴収法改正への介入を依頼。正珍は他の老中に内緒で動いたとされます。
一方、後者の若年寄・忠央も金森の願いを受けて、勘定奉行(大橋親義)にその件を内々に依頼。勘定奉行・大橋は美濃郡代(青木安清)に指示を出したとされます。
つまり、郡上藩主・金森の依頼を受けた老中・若年寄・勘定奉行・代官らが、郡上藩の領民の要求を抑え付けようとする構図が浮き彫りとなったのです。この一大事件を果断に処理したのが、意次でした。
手腕が高く評価された
郡上藩主・金森頼錦は改易、南部藩にお預けとなります(12月25日)。前老中の本多正珍は逼塞の処分、前若年寄の本多忠央は改易の処分となるのです。
意次の厳しい事件処理を幕末の能吏・川路聖謨も高く評価しています。聖謨は意次を「豪傑」と評しているのです。

(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)
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