将軍就任を断固拒否した「徳川慶喜」の驚愕の本音 こっそり呼んだ側近に「徳川家はもう持たない」

江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。何とか貧乏くじを引かずにすむように立ち回る慶喜だが(第1回)、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、政権の中枢に据えられていく(第2回)。
第二次長州征伐では幕府が敗北
慶応2(1866)年6月7日、幕府艦隊が長州領内に砲撃を行い、第二次長州征伐が始まる。だが、第一次長州征伐のようにうまくはいかなかった。戦闘は芸州口、石州口、周防大島口、小倉口の4カ所で繰り広げられたが、幕府はいずれも敗北を喫している。
それも無理はない。薩摩藩は幕府の出兵に協力しなかったばかりか、征伐の直前、長州と密約を結び、武器の提供などの後方支援を行った。坂本龍馬が仲介したことで知られる「薩長同盟」である。薩摩藩以外の九州諸藩にしても、長州の征伐に積極的ではなく、ろくに攻め込まなかった。
そもそも、長州藩が幕府に対抗すべくしっかり体制を固めたのと対照的に、幕府軍は戦術らしい戦術もなく、戦闘意欲に乏しかった。これではいくら兵の数で上回ろうが、勝てるわけがない。
そして敗戦を決定づけたのが、将軍、家茂の病死である。脚気衝心(かっけしょうしん)を患った家茂は大阪城で病に伏せ、回復することなく、この世を去ることとなった。
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