聡明ゆえ迷走?批判多い「徳川慶喜」不憫な境遇 朝廷と徳川の血を引く強みと弱みを一挙に露呈
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。何しろ幕政は混乱の中にある。この局面を打開できる優秀なリーダーが今こそ必要であり、それが慶喜だと周囲は盛り上がった。そんな中、何とか貧乏くじを引かずにすむように立ち回る慶喜(第1回)。だが、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、「文久の改革」と呼ばれる幕政改革に着手。「最後の将軍」という重責を担う日は確実に近づいていた(第2回)。
慶喜は国際感覚を持った開国派だった
尊王攘夷思想の先駆けともいわれ、「烈公」と呼ばれるほど荒々しい気性の斉昭を父に持つ、徳川慶喜。幼少期から聡明ぶりを発揮したこともあり、攘夷の旗手としてもてはやされ、「次期将軍に」と期待され続けた。そんな中、何をしても政治利用されることから、慶喜は、言動には慎重にならざるをえなかった。
だが、激情タイプだった父が亡くなると、もはや遠慮はいらなかった。将軍後見職に就いた慶喜は、この国の行く末について、自分の思いをようやく明らかにする。
「世界万国が天地の公道に基づいて互いに交誼を図っている今日、わが国だけが鎖国の旧習を守るべきではない」
鎖国をするべきではない――。まさかの開国派宣言である。
一方で、朝廷が唱えるのは、あくまでも「破約攘夷」。つまり、日米和親条約と日米修好通商条約を破棄して、相手が報復してきたら、それを討つというものである。
国力の差を踏まえれば、そんなことできるわけがない。朝廷や攘夷論者に、いかに国際感覚が欠如していたかがわかるだろう。現実に即して考えたならば、上記の「開国宣言」の後に慶喜が続けた言葉に尽きる。
「今日の条約は外国から見れば政府と政府の間で取り交わされた約束である。アメリカを恐れて調印したからといって、破棄しようという議論は、国内では通用しても、外国には、とうてい承服されがたいであろう」
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