聡明ゆえ迷走?批判多い「徳川慶喜」不憫な境遇 朝廷と徳川の血を引く強みと弱みを一挙に露呈
優れた開国論を持ちながらも、朝廷の攘夷要請をはねつけられない慶喜。攘夷派からも開国派からも失望されたが、よく考えれば、なぜ慶喜だけこれだけ責められるのだろうか。
「決断力がない」と批判した慶永も、開国と攘夷の間を行ったり来たりしている点では、何ら慶喜と変わらない。幕府の老中たちもそうだ。攘夷など不可能と知りつつも、江戸にやってきた三条勅使との交渉の結果、幕府は攘夷の勅旨を受け入れている。
慶喜が、一度は思いとどまった「将軍後見職の辞職」に再度、踏み切ろうとしたのは、幕府のそんな態度を見た直後のこと。それでも思いとどまったのは、老中からこう言われたからだった。
「和宮の将軍家茂への降嫁要請時に、7、8年ないし10年内に外国人を日本から遠ざけることを孝明天皇に固く約束した以上、ここで攘夷の実行を拒絶すれば離縁になりかねない」
「公武合体」を台なしにはできない
少し説明が必要かもしれない。朝廷の許可なく、日米修好通商条約を幕府が調印したことで、朝廷と幕府の対立は深刻化した。しかし、外国の脅威が迫る中、今は国内で分裂している場合ではない。そこで朝廷と幕府を結び付けて体制を再編しようとする動きが出てくる。これがいわゆる「公武合体」と呼ばれるものだ。
公武合体の具体策として、将軍の徳川家茂のもとへ皇妹の和宮親子(かずのみやちかこ)内親王が嫁いでいる。そのときに、幕府は朝廷に「7、8年ないし、10年以内に攘夷を決行する」と約束をしてしまっていた。
そうした経緯を踏まえれば、攘夷をここで拒否すれば、公武合体も台なしになる。とりあえずは受け入れて、京で話し合えばよい。老中からそう聞かされて、慶喜なりに幕府の態度も理解したのだろう。将軍後見職にとどまることにしている。
一見、迷走しているだけに見える慶喜の言動にもやはり理由があったし、慶喜の周囲に目をやれば、やはり同じような葛藤や迷いに満ちていた。
それくらい正解がない、判断の難しい時代だったといえよう。激しい攘夷思想が盛り上がったのも、極端な方向に考えることで迷いを振り切ろうした人たちが、それだけいたということではないか。少なくとも慶喜は、楽な道に進むことはなく、いちいち悩み、方針を打ち出しては覆した。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら