聡明ゆえ迷走?批判多い「徳川慶喜」不憫な境遇 朝廷と徳川の血を引く強みと弱みを一挙に露呈

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混迷の時代に、慶喜だけ特に責められるのは、期待されているがゆえ。影響力が大きいために、ブレない態度を求められ、どちらの陣営からも「はっきりしない」と責められる。それもリーダーの宿命とはいえ、慶喜がちょっと気の毒にもなってくるのは、筆者だけだろうか。

慶喜も幕府も葛藤をしながら、文久2(1862)年12月5日、将軍の家茂は、攘夷の決行を受諾する奉答書を三条実美に提出する。将軍の家茂は翌年の3月に上洛することになった。目的はもちろん、攘夷をいかに決行するかを、朝廷に説明するためである。

ただ、家茂がいきなり京に上るのも負担は大きい。そこで家茂の露払いとして、2カ月前の1月に慶喜が先に京へ入ることとなった。批判を受けながらも結局、頼られるのが慶喜であり、本人もそうした運命を受け入れつつあったのだろう。

慶喜は、将軍後見職という立場でありながら、お供を引き連れることもなく、極めて少ない同行者を伴い、京に上った。権威を見せつけることに興味がなく、むしろ、注目されたくない慶喜らしい。

待っていたのは強烈な攘夷の催促

そうして上京した慶喜を待っていたのは、強烈な攘夷の催促である。1月5日に京に到着して、11日には、長州藩の久坂玄瑞や寺島忠三郎、そして熊本藩の河上彦斎や轟武兵衛が宿所に押しかけてきた。ちなみに、河上彦斎は「幕末四大人斬り」の1人で、漫画『るろうに剣心』の主人公である緋村剣心のモチーフにもなった攘夷派の志士である。勘弁してくれ、とばかりに慶喜は仮病を使って乗り切った。

「本気で攘夷をする気ではないらしい」

そんな捨て台詞まで吐かれたというから、穏やかではない。慶永が2月8日に京都に到着すると、攘夷の催促はエスカレートしていく。

なにしろ、当時の京都は長州藩と土佐藩に支配されていた。しかも前述したように、すでに将軍は攘夷を命じる朝命を受け入れてしまっている。ならば、その日付を決めろと迫られるのは、当然のことだった。孝明天皇や鷹司関白は、議奏の三条実美らを慶喜のもとに派遣して、こんなことまで言わせている。

「いつまでも決定しないと浪士たちが暴発するぞ」

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