実力つけても幕府は冷遇「徳川慶喜」不興買う理由 禁門の変で活躍後に露骨な「慶喜外し」に直面

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徳川慶喜の素顔に迫る短期連載の第5回をお届けします(写真:近現代PL/アフロ)
「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推し量ることが難しく、性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力といってもよいだろう。その素顔に迫る短期連載の第5回は「禁門の変」で存在感を発揮した慶喜の、お膝元で起きた内乱における動きについてお届けする。
<第5回までのあらすじ>
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。何しろ幕政は混乱の中にある。この局面を打開できる優秀なリーダーが今こそ必要であり、それが慶喜だと周囲は盛り上がった。そんな中、何とか貧乏くじを引かずにすむように立ち回る慶喜(第1回)。だが、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、徐々に政権の中枢に据えられていく(第2回)。
優れた開国論を心に秘めていた慶喜。攘夷など非現実的だと思いながらも、幕府と朝廷の板挟みに苦しむ(第3回)。いったんは幕府を離れて、参与会議の一員となるが、薩摩の政治的野心にうんざりし、暴言を吐いて会議を解体。朝廷を守る禁裏御守衛総督に就任して、長州の撃退に成功する(第4回)。新たな組織の「創造」へと慶喜は突き進もうとするが……。

生涯初の実戦指揮を執る

自らの暴言によって参与会議を解体させ、禁裏御守衛総督に就任した慶喜。京に攻め込んできた長州藩兵と対峙することになる。本来は、京都守護職で会津藩主である松平容保の任務だったが、病中の身のため天皇の側に残し、慶喜が代わりを務めることになった。

長州藩兵が蛤門を攻撃して、会津藩兵は一時期苦戦に陥るも、薩摩藩兵が駆けつけると、形勢は逆転。長州勢が敗走する中で、戦地となった京は大混乱に陥る。

そんな中、慶喜は飛び交う流れ弾も恐れずに、軍勢を引き連れて京の警護にあたった。長州藩兵の残党は、鷹司邸に突入して占拠。慶喜は「劣勢の長州兵たちが無理やり、朝廷に突入してくるかもやしれぬ」と危機感を持つ。窮鼠は時に猫を噛む。禁裏御守衛総督として、そんな事態だけは避けなければならない。

慶喜は腹を決める。一気に決着をつけるべしと、大胆にも鷹司邸を焼き払うという命令を下したのだ。

のちに慶喜は『昔夢会筆記』で「さては一大事なり、一刻も猶予し難し」とその心境を記した。まさに「必死の覚悟を決めて」の決断だったが、その甲斐があって、慶喜は長州の最後の部隊を敗走させることに成功したのである。ただし、火勢が強く、京都の市街地を焼き払う火災となってしまったが……。実は慶喜にとって、これが生涯初の実戦指揮だった。

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