実力つけても幕府は冷遇「徳川慶喜」不興買う理由 禁門の変で活躍後に露骨な「慶喜外し」に直面

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慶喜は、天狗党から届けられた嘆願書の受理を拒絶。説得にあたることすらしなかった。慶喜に受け入れられないと知った天狗党が降伏したため、一戦を交えることなく、内乱は終結を迎える。

その後も慶喜は徹底していた。武田耕雲斎のほか全員を金沢藩にとらえさせて、350人あまりが斬られることになった。冷酷にも思える仕打ちについて、こんな弁明を述べている。

「そのときは、私の身の上がなかなか危なかった。それでどうも何分にも、武田のことをはじめ口を出すわけにいかぬ事情があったんだ」

あらゆる局面においてキーマンとなる慶喜には、暗殺の危険が常につきまとう。側近の何人かは実際に殺されている。武田に少しでも寄り添えば、自身の命が危なかったのだと慶喜は主張する。

その言い分はともかく、かつての同志を慶喜は見捨てた。慶喜の評判は悪くなり、またもや失望されることとなったのである。

「禁門の変」をきっかけに、慶喜の目の前に開けた新しいリーダー像は、幕府との対立の中で、またかすみつつあった。おまけに水戸藩でのいざこざも起きた。慶喜からすれば、幕府に配慮して厳罰したにもかかわらず、幕府は相変わらず、自分に不信感を募らせている。勢いの衰えを見せてしまえば、すぐに付け込まれるのは、時代の常だ。

江戸に呼び戻しに来た老中を拒絶

慶応元(1865)年2月、老中の阿部正外と松平宗秀が大軍を引き連れて上洛してきた。目的は、慶喜を江戸に呼び戻すこと。慶喜だけではない。守護職や所司代もみな江戸に帰って来い、と働きかけてきた。京のことも、これからは幕府に任せてほしいというわけだ。

もちろん、老中の2人に武力を行使するほどの覚悟はない。ただ、兵を入れて威圧すれば、弱り目の慶喜なら受け入れるだろう、という算段だったようだ。

しかし、それは慶喜という人間を見くびりすぎである。慶喜は何度も希望を抱いてリーダーたらんとするが、そのたびにうまくいかずに頓挫してきた。挫折には慣れていたし、自分が腹をくくれば、案外に突破口があることも肌で感じていた。

慶喜は老中たちを拒絶。何をしに来たとばかりに追い返した。朝廷でも関白から「何のために大軍を率いてきたのか」と詰問されて、老中たちはすごすごと江戸に帰っている。

味方にいてもかき回されるが、そばに置いておかないとそれはそれで、厄介な慶喜。よほど幕府は慶喜の存在が脅威だったのだろう。

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