将軍就任を断固拒否した「徳川慶喜」の驚愕の本音 こっそり呼んだ側近に「徳川家はもう持たない」
「血筋からいっても、慶福(家茂)の様子からいっても、それが妥当だ」
家茂が将軍に選ばれたと大老の井伊直弼から聞かされたとき、慶喜はこう言ってほほ笑えんだという(第1回参照)。家茂と慶喜はかつて将軍の地位をめぐって争ったが、周囲が勝手に盛り立てるだけで、慶喜自身は将軍になりたくなかった。だから、ほほ笑んだのは安堵からに違いない。とはいえ、自分以外なら誰でもよかったわけではないだろう。
幼少期から大人たちの思惑にがんじがらめにされていた慶喜には、人を見る目が養われていたように思う。だからこそ、のちに実業家として活躍する渋沢栄一を農民という身分にもかかわらず重用したし、薩摩藩の島津久光の野心を目ざとく察知したのだろう。
「家茂が血筋からしても、たたずまいからしても、将軍にふさわしい」という言葉は、慶喜の本心だったのではないだろうか。
慶喜も家茂も聡明がゆえに期待された点では同じだが、家茂は慶喜のような、つかみどころのない複雑さは持ち合わせていなかった。血筋の良さもあり、家茂には年齢にそぐわない安心感があったようだ。幕臣たちも家茂への忠義の心は熱く、勝海舟にいたっては、こう信服していたという。
「この君のためなら命を捨ててもよい」
家茂が死亡した日、勝海舟は日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」とつづっている。
家茂に降りかかった思わぬ事態
それほど幕臣に慕われた家茂も、将軍職を投げ出そうとしたことがあった。第二次長州征伐のため、家茂が大阪に行き、朝廷からの征伐勅許を待っていたときのことだ。思わぬ事態が家茂に降りかかった。
通商条約をすでに締結していたアメリカ、ロシア、イギリス、フランスの4カ国の公使が、連合艦隊8隻を率いて大阪湾に来航したのである。老中格の小笠原長行が対応したところ、条約の勅許を迫られた。勅許とは、つまり、孝明天皇からの許可のことだ。
その背景には、かつて大老だった井伊直弼が朝廷の許可を得ずに通商条約を結んだことがあった。4カ国からすれば、幕府との約束事だけでは安心できないというわけだ。
そのうえ、神戸港の開港まで求められるが、朝廷としては、条約の勅許とともに認めるわけにはいかない。家茂はその対応に追われた。
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