将軍就任を断固拒否した「徳川慶喜」の驚愕の本音 こっそり呼んだ側近に「徳川家はもう持たない」
大阪城での会議は紛糾し、自身を支える老中の罷免問題にも発展。「将軍を辞職させよ」という声まであがり、家茂はほとほと嫌気がさしたらしい。朝廷にこんな辞表を提出した。
「懸命に努力してきたつもりだが、叡慮に適わなかったので、将軍職を辞任する。あとは長く京都にいて、朝廷とも親しんでいる一橋慶喜に譲りたい」
このとき家茂はまだ20歳である。己の無力さとやっていられないという気持ちから、嫌になるのも無理はないだろう。辞表の文面には、朝廷と近しい慶喜への皮肉も込められているように思う。
驚いた慶喜は、守護職の松平容保、所司代の松平定敬を連れて、伏見で家茂を待ち伏せ。対面を果たすと、辞職を思いとどまるように家茂を説得している。「朝廷のほうは何とかするから」となだめ、慶喜は家茂を二条城にとどめて、自ら朝議に臨んだ。
「条約を許可しないなら切腹する」
ここからは、慶喜の大仕事だ。孝明天皇も腹では「開国やむなし」と考えていると踏んだ慶喜。だが、公卿たちの意見は割れている。断固反対しているのは、近衛忠房や正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)らで、その背後には薩摩藩がいるのを、慶喜は知っている。
会議では出口のない議論が行われて、結論が出ないまま、夜が更けた。二条関白が「今日はこのあたりで……」と朝議をお開きにしようとした瞬間、「ここだ」と慶喜は勝負に出る。突然、こう切り出したのである。
「これほど申し上げても朝廷が条約を許可しないならば、私は責任を取って切腹します。わが一命はもとより惜しむに足りません。しかし、私が切腹したら、家来どもがおのおのがたに向かってどんなことをしでかすか、保証しかねますぞ」
そう言って慶喜が座を立つと、関白は慌てだした。参与会議で薩摩藩の島津久光に暴言を吐いたときと同じだ。こういうときの慶喜は実に強い。
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