公家なのに超奇抜「岩倉具視」その面白すぎる素顔 幼少期からやんちゃで物言いもストレート
自分の名前を「もっと書きやすい文字に変えてほしい」
文政8(1825)年、岩倉具視は公卿の堀河康親の次男として、京都で生まれた。堀河家は藤原北家高倉流の支流にあたる。下級の公家に生まれ落ちたところから、岩倉の成り上がり人生の幕が上がる。
岩倉の幼名は「周丸(かねまる)」だったが、公家の仲間は「岩吉」と呼んでいた。まるで庶民につけるようなニックネームで呼ばれたのは、岩倉の振る舞いが公家風からほど遠く、やんちゃで粗野だったからだ。
岩倉が「具視」という名を与えられるのは、14歳のときのこと。岩倉具慶の養子となったときに与えられた名で、もともとは「具瞻」(ともみ)だった。「具瞻」の名は、中国最古の詩集『詩経』の「小雅」にある「民具爾瞻(たみともになんじをみる)」からとられたものだ。
しかし、「岩吉」と呼ばれるような男にとっては、仰々しかったようだ。せっかく与えてくれた名に対して、こんなリクエストをしている。
「もっと字画が少なくて、書きやすい文字に変えてほしい」
公家社会では婉曲的な表現を好まれるが、岩倉具視はお構いなしで、いつでもストレートな物言いをした。14歳にして、その萌芽が見て取れる。そんな岩倉の要望が通って「具視」という名に落ち着くことになった。
堀河家に生まれた岩倉が、なぜ岩倉具慶の養子として迎えられたのか。そこには、いかにも岩倉らしいエピソードがある。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら