公家なのに超奇抜「岩倉具視」その面白すぎる素顔 幼少期からやんちゃで物言いもストレート
言うまでもないことだが、和歌を学ぶことが本来の目的ではない。むしろ、岩倉は、優雅に歌を詠んで鞠を蹴り管絃を演奏するような公家たちに、意識改革が必要だと考えていた。
何しろ、岩倉が政通に入門した嘉永6年は、ペリー率いる黒船が来航する年だ。開国を迫られて、時代が大きく変わるなかで、朝廷も幕府も変わっていかなければならず、岩倉は自らがその先導役になろうとしていた。
同時期に同じように奔走していたのが大久保利通
そんなとき、薩摩藩でも無名の下級藩士が一人、岩倉と同じように権力者に何とか近づこうとしていた。男の名は、大久保利通である。
大久保は島津久光と接点を持つために、久光の囲碁相手である吉祥院の住職のもとで囲碁を学んだ。吉祥院を通じて、久光に自分の存在を知ってもらおうとしたのである。岩倉は大久保より5歳年上だが、のちに志を共にする二人がほぼ同時期に、有力者の後ろ盾を得ようと、必死にきっかけを探していたことになる。
それぞれの地道な努力は実り、大久保は万延元(1860)年、30歳のときに久光と対面を果たす。勘定方小頭格に任じられると、藩政中枢へと進出。頭角を現し始める。
一方の岩倉は、大久保に先んじて安政5(1858)年に、34歳にして中央政治に乗り出すことになった。岩倉について、鷹司はこう評している。
「眼彩人を射て、弁舌流るるが如し、まことに異常の器なり」
公家社会のアウトローが、いよいよ世に放たれた。遅咲きでようやく出世した岩倉だが、やがて5年にもわたって地下活動に追いやられるとは、このときは夢にも思わなかったことだろう。
(第2回は9月5日配信予定)
【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)
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