倒幕支えた「岩倉具視」が頭角現したある衝撃行動 閉鎖的な公家社会に収まらない異端の突破力

岩倉の存在を知らしめた「廷臣八十八卿列参事件」
公家らしからぬ自由奔放さで、異彩を放っていた岩倉具視。閉鎖的な公家社会だけに、平時であれば「知る人ぞ知る変人」として、生涯を終えてもおかしくはなかった。
だが、異端児は乱世に強い。列強から開国を迫られて国内が揺れ動いた幕末においては、常識よりも現状を打破する突破力が求められた。
安政5(1858)年3月12日、関白の九条尚忠は、度肝を抜かれたことだろう。突然、88人もの公家が自邸へと押しかけてきて、しまいには、座り込み活動を開始したのである。
公家が集結して関白に抗議運動を行うなど、本来、考えられないことである。現状維持を好む公家たちを、そんな非常識な行動に駆り立てたのは、ほかならぬ岩倉具視だった。岩倉はこの「廷臣八十八卿列参事件」で、中央政界に自分の存在を知らしめることになる。
なぜこんな抗議運動が起きたのか。それは「異国嫌い」の孝明天皇が、日米修好通商条約の調印にあくまでも反対したことに端を発する。
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