倒幕支えた「岩倉具視」が頭角現したある衝撃行動 閉鎖的な公家社会に収まらない異端の突破力

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安政5年2月23日、関白の九条邸に岩倉たちが押しかけてくる20日ほど前のことだ。江戸幕府で老中首座を務める堀田正睦は、日米修好通商条約の締結について、天皇から許可をもらうべく、上京する。

しかし、孝明天皇から思わぬ言葉を伝えられることになる。

「条約調印は国家の重大事であるから、三家以下の諸大名が議論したうえで、もう一度奏上するように」

条約調印について、孝明天皇から「慎重に議論しろ」と差し戻されてしまったのである。実のところ、孝明天皇は1月末の段階で、条約締結に反対することを決めていた。外国と親交を持つのはやむをえないとしても、自分の代で通商まで認めてしまうのは「後代までの恥となる」(『孝明天皇紀』)と考えていたからだ。

また、条約締結に反対を打ち出すことで、開国派で長期にわたり関白を務めた鷹司政通の影響力をそぎたいという思いもあったようだ(『徳川慶喜の支持者「孝明天皇」開国嫌った真の理由』参照)。孝明天皇の開国拒否によって、鷹司政通は老齢と病気を理由に辞職。後任関白の九条尚忠が補佐することとなる。

もはや後戻りはできない幕府

条約締結に対する孝明天皇の回答は、婉曲な言い回しではあるが、実質は確固たる開国への拒絶にほかならない。孝明天皇の意を受け取った堀田は、「何を今さら」と思ったことだろう。

溜詰・大廊下・大広間の大名のみではあるが、すでに通商条約については、同意をとりつけている。下田奉行の井上清直と、目付の岩瀬忠震らが幕府全権として、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと交渉も始めており、後戻りなどできない。

天皇の許可は形式上とりつけようとしただけで、すでに条約締結ありきで動いているのだ。大体、ペリーとの日米和親条約のときに、朝廷は何ら反対しなかったではないか――。

堀田の胸中には、さまざまな思いが錯綜したことであろう。孝明天皇から言われたように再度、大名たちと議論するつもりなどさらさらなかった。アメリカと戦争したところで勝てる見込みがない以上、従うほかはない。そのことがすべてだった。

3月3日、堀田のもとに第14代将軍の徳川家茂からの答書が寄せられる。あくまでも条約の承認を請うもので、孝明天皇からの「諸大名がもう一度議論したうえで」という要望は無視されたといってよい。

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