徳川慶喜の後ろ盾「孝明天皇」なぜか知られぬ実像 幕末の超重要人物であり、激しい攘夷論者
日米修好通商条約の締結に「激怒」
安政5(1858)年6月19日、神奈川沖に停泊中のポーハタン号で、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約が締結された。日本側の全権は、下田奉行の井上清直と、海防掛目付の岩瀬忠震である。この条約によって、神奈川・長崎・新潟・兵庫が開港される。
条約の締結に怒りを露わにしたのが、孝明天皇である。左大臣の一条忠香が嘉永7年7月から文久3年に至るまでに書いた日記『一条忠香日記抄』には、そのときの孝明天皇について、次のような記載がある。
「主上には、はなはだ御逆鱗のご様子にて」
主上とは「天皇」のことだ。まさに「逆鱗に触れる」と表現するにふさわしい怒りだったことは、想像にかたくない。
なにしろ、この条約については、事前に老中首座の堀田正睦から話があり、孝明天皇はきっぱりと拒否していた。それにもかかわらず、幕府は勅許を得ることなく、つまり、天皇から許可を取らないままで、日米修好通商条約を締結してしまったのである。
怒りを買ってしまった幕府からすれば、孝明天皇の拒絶は大誤算だった。条約締結までの経緯を少し振り返ってみよう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら