倒幕支えた「岩倉具視」が頭角現したある衝撃行動 閉鎖的な公家社会に収まらない異端の突破力

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幕府から条約承認を再度請われ、関白の九条尚忠が勅答案文を作成することになった。関白が勅の案文を作ること自体は珍しくない。だが、このときばかりは、孝明天皇の思いをあまりにないがしろにした内容だった。

「いろいろ心配な点はあるが、このうえは幕府において勘考するように」

事実上の幕府への白紙委任状であり、「好きに決めてよい」と言っているに等しい。この関白案は3月9日の朝議で話し合われて、その場で異論も出たが、九条が強弁したために、11日に案通りで決定。14日には堀田に伝えられる運びとなった。

堀田としても、胸をなでおろしたことだろう。前回、孝明天皇から勅許が得られなかった堀田は、九条関白に接近。情勢を理解させ、条約締結に協力させることに成功したのである。

孝明天皇はといえば、条約を拒否することで、ベテランの鷹司政通を追い落としたものの、かえって九条関白に力を持たせることになったのだから、組織のパワーバランスというものは難しい。

堀田にとって計算違いだった岩倉具視の存在

孝明天皇が朝廷で孤立を深めていく一方で、堀田は巻き返しに成功した格好となった。のちに強権を振るった大老の井伊直弼と比較されるからか、堀田は頼りない存在、時には無能な老中とさえ評されることもある。確かに勅許を得ることには失敗したが、次善の策として、堀田は適切な手を打っていたといえるだろう。

そもそも、江戸幕府はこれまで、朝廷に政治への介入をさせてこなかった。そのため、公家にも「幕府に逆らうことなかれ」という空気が充満している。関白の九条を抱き込んで、強引に突破口を開ければなんとかなると、堀田はみていたに違いない。事実、その通りになったのである。

しかし、たった一つだけ、計算違いが起きた。公家の事なかれ主義に全く染まっていない変人、岩倉具視の存在である。このとき、岩倉は従四位上侍従兼近習の地位についていた。元関白の鷹司政通の力も借りて得た地位とはいえ、まだ下級の臣下にすぎなかった。

ただ、時に情勢は下から眺めたほうがよく見えることがある。岩倉は堀田の上京以来、朝廷のバタバタぶりをじっと観察していたのだろう。関白案が朝議で話し合われているとき、すでに文案の内容を把握していた。

これは見過ごすわけにはいかない。岩倉の政治的勘が働き、朝議がまとまる直前に、行動を開始する。

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