倒幕支えた「岩倉具視」が頭角現したある衝撃行動 閉鎖的な公家社会に収まらない異端の突破力
武家伝奏の久我建通の邸宅で、正親町三条実愛、中山忠能、大原重徳らが集まると、岩倉はこんな提案をした。
「同士の公家を募って一同が参内し、勅答案を改めるように九条関白に要求してはどうでしょうか」
とはいえ、権力者である関白に立ち向かうのは、誰にとっても恐ろしい。そんな気持ちを見透かしてか、岩倉は事前に相談していた大原の名を挙げながら、こう決意を語った。
「もし、九条関白がお怒りになれば、私と大原が結党首謀の罪を甘んじて受けます」
それならば、と一同は賛成して、同志の公家たちにも「明日の正午を期して参朝すべし」と伝えられることとなった。
翌日、137家の公家のうち、実に88人の公家が参内。下級公家の岩倉の呼びかけに、中級から下級の公家たちが応えてくれたのだ。それほど九条関白への不満は高まっていた。だけれども、自ら声を上げることはできなかったのだ。
そんななか、この得体の知れない男が、孝明天皇のために、立ち上がろうとしている。心を動かされないわけにはいかなかったのだろう。
会うことを拒絶されても、しつこく粘った岩倉
今か今かと岩倉たちは、九条関白の参内を待つが、いつまでもやってこない。なんでも病に伏せているという。仮病に違いない。仕方がなく、参内した左大臣の近衛忠煕に、公家たちが署名した書面を提出している。
だが、せっかくこれだけの人数を集めたのだ。ここで終わるわけにはいかないと、岩倉たちは九条邸まで足を運んで、面会を求めた。九条は無視を決め込んで、会うことを拒絶。自分より地位の低い公家たちの意見に、耳を傾けるつもりは毛頭なかった。
普通ならば、ここで引き揚げるところだろう。すでに書面は左大臣に渡している。直接、訪問までして、十分なプレッシャーをかけることもできた。目的は達成されたといってよい。
だが、岩倉は実にしつこい男でもある。仮病を使って、引きこもるその性根も許せなかったのかもしれない。とことんやるべしと、何度も九条家の家人と交渉しながら、こう伝えて家の前から離れなかった。
「回答を得るまでは、私たちは帰りません」
このときばかりは、九条も相手が悪かった。長期戦に持ち込まれ、しぶしぶ「明日しかるべく返事をする」と答えている。これを聞いて公家たちは九条邸を退散。岩倉の粘り腰で、実に夜10時まで居座り続けたのだった。
岩倉具視、34歳。中央政界への鮮烈なデビューとなった。
(第3回につづく)
【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら