下級公家から飛躍「岩倉具視」は心動かす力が凄い 会いさえすれば相手を口説き落とせる策略家
下級公家だった岩倉が中央政界に自分の存在を知らしめたのが「廷臣八十八卿列参事件」だ。安政5(1858)年3月12日、88人もの公家が関白の九条尚忠邸へ押しかけて、しまいには座り込み活動をした。公家が集結して関白に抗議運動を行うなど、本来、考えられないことである。
関白にとって想定外の行動を主導した岩倉
外国との通商に反対する孝明天皇の意向を無視して、幕府にすり寄っていく関白の九条尚忠。九条関白からすれば、老中首座の堀田正睦をはじめ幕府側から説得された結果、国際情勢も踏まえて、現実的な判断を下したにすぎないが、強引さは否めなかった。
一部の公家から幕府寄りの姿勢を批判する声が上がると、左大臣の近衛忠煕への手紙でこんな気持ちを吐露している。
「この頃の堂上向き人気立ち、種々心のまま申し出られ、甚だもって心痛」
「堂上」とは「堂上家」、つまり朝廷の殿舎に上ることを許された家柄のことで、「人気立つ」とは群集が興奮しているさまを指す。「公家たちが勝手なことを言って盛り上がり、困ったものだ」と愚痴をこぼしたのだ。
だが、不満を嗅ぎ取っていた九条関白も、88人もの公家たちが突如、自分の邸宅に押しかけてくるとは、夢にも思わなかったに違いない。想定外の行動に出るのが、岩倉具視という常識知らずの公家だった。
公家たちは、岩倉が計画を持ちかけた当初こそ、腰が引けた雰囲気が漂ったものの、いったん行動に移してしまえば、公家らしからぬ粗暴さも見せる。九条邸に押しかけた公家の中には「国賊!」「撃ち殺せ!」と暴言を吐く者までいた。
岩倉の扇動がそれほど巧みだったのだろう。岩倉は、のちに第14代将軍の徳川家茂が死去したときも、王政復古の実現にあたって、公家有志を扇動し、朝廷改革を主導することになる。
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