下級公家から飛躍「岩倉具視」は心動かす力が凄い 会いさえすれば相手を口説き落とせる策略家
岩倉からすれば「安政の大獄」が朝廷内にも及ぶという危惧があった。そうなる前に、幕府側に飛び込んでいこうというのが、いかにも岩倉らしい考え方である。
しかし、内藤も朝廷からいきなり一公家が会いに来たといえば、警戒するに決まっている。そんな相手の心理的なハードルを下げるためだろう、岩倉はわざと軽装して訪ねた。それでも初めは会ってくれなかったが、いつものように粘りに粘って、面会を承知させている。安政5(1858)年10月4日のことである。
会ってさえもらえれば、岩倉のペースである。条約調印に対する天皇の考えなど、朝廷の立場や状況を丁寧に説明。決して幕府と敵対するつもりはないことを訴えた。
「互いに猜疑を抱くのは、国家のためにならない」
岩倉には策略に長けた狡猾さがあるが、「国家のために」という思い自体はまっすぐである。突然やってきた1人の公家に、内藤も心を動かされたらしい。翌日、内藤は菓子折りを持って、岩倉のもとを訪ねている。
人と人がつながることで困難な事態を動かせる
岩倉はこの時期に、京都所司代を務める酒井忠義にも会っている。京都所司代は、幕府当局の代表機関である。簡単に会える相手ではなかったが、同志の千草が酒井の用人である三浦七兵衛と面識があったため、そこに突破口を見出して、面会にこぎつけることに成功した。
人と人がつながることで、困難な事態を動かすことができる。関白への抗議運動から、岩倉はそんな手ごたえを得ていたのかもしれない。
そのころ、「安政の大獄」の指揮をとる老中の間部詮勝が京都で志士を次々と逮捕していた。そんな現状を危惧し、岩倉は酒井にこう熱弁した。
「朝廷と幕府が反目し合うことは、国家の大過ではないだろうか」
酒井も朝廷の状況を知って、岩倉の言うことに納得。「公武一和のために力を貸してほしい」と応じている。
だが、そんな岩倉の奔走にもかかわらず、幕府は朝廷内への弾圧にも手をつける。安政6(1859)年2月17日から4月22日にかけて、戊午の密勅に関与した公卿や皇族にも処分が行われ、青蓮院宮尊融入道親王、三条実万、二条斉敬らが謹慎などに処されることになった。幕府と朝廷の対立は決定的になったといってよいだろう。
しかし、岩倉の奔走が無駄に終わったわけではない。大老の井伊が水戸藩士らに暗殺されると、幕府の権威は失墜。ここぞとばかりに、岩倉は京都所司代である酒井とのパイプを生かして、朝廷と幕府とを結ぶための行動へと打って出ることになった。
和宮降嫁による公武合体運動――。岩倉は、混迷する政局に自ら飛び込んでいく。その先には、人生最大の挫折が待ち受けていた。
(第4回につづく)
【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)
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