下級公家から飛躍「岩倉具視」は心動かす力が凄い 会いさえすれば相手を口説き落とせる策略家

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九条関白への抵抗運動について、岩倉は「関白に逆らう」という大きなリスクをとって、大胆な行動に出たように思われがちである。

だが、はたしてそうだろうか。冷静に考えれば、孝明天皇の意をないがしろにし、幕府を重視した九条関白のほうが、よほどリスキーで、常識知らずともいえるだろう。

本来、力を持つべきものが実権を持っていない。時に、政治権力というものは、そうした「ねじれ」を生み出すものだ。岩倉はうまくそこを突いたのであって、向こう見ずな行動をとったわけでは決してなかった。

現に、岩倉が主導した「廷臣八十八卿列参事件」は、朝廷の秩序を乱す大規模な運動だったにもかかわらず、おとがめなしとなっている。孝明天皇は「無理からず趣意」と理解を示して、勅答を変更するように指示。朝廷は、外国との通商を拒否する姿勢を貫くこととなった。いわば、岩倉が孝明天皇の「開国拒否」を後押ししたといってよいだろう。

朝廷と幕府が対立を深めるのは本意ではなかった

孝明天皇の外国との通商拒否によって、老中首座の堀田は失脚する。代わって、大老の井伊直弼が権勢をふるい、条約調印を断行。それに激怒した孝明天皇が暴走して水戸藩に密勅を下すと(戊午の密勅)、大老就任直後に顔を潰された井伊は、大弾圧「安政の大獄」に踏み切ることとなる(『大誤解「安政の大獄は井伊直弼の暴走」でない根拠』参照)。

時局の混乱に乗じて存在感を示した岩倉だったが、朝廷と幕府が対立を深めることは、本意ではなかった。諸外国から開国を迫られている今、国内で分裂している場合ではない。

孝明天皇とて、幕府から実権を奪いたいわけではなく、あくまでも鎖国体制を維持することを望んだにすぎない。だが、幕府からすれば、開国は避けられないという現状に直面しており、孝明天皇のいう攘夷などできるわけがないと考えていた。

孝明天皇の強情と井伊の強権により、朝廷と幕府の関係には緊張が走るばかりだった。

そんな中、岩倉はまたもや局面を打開すべく、大胆な行動に出る。伏見奉行の内藤正縄と直接会おうと考えたのだ。幕府による弾圧「安政の大獄」が行われ始めた時期だけに、幕府側の役人に会うのは、リスクを伴った。

だが、そこには、岩倉なりの読みがあった。岩倉は同志の千種有文に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言い、内藤と話し合う決意を述べた。

「相手も朝廷の情報がほしいはずだから、会ってくれるだろう。懇切に天皇の考えを説明してこようと思う」

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