大誤解「安政の大獄は井伊直弼の暴走」でない根拠 暴走したのは徳川慶喜の後ろ盾「孝明天皇」
安政5(1858)年、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結(第1回)。嘉永7(1854)年のペリーとの日米和親条約のときには反対しなかった孝明天皇だが、このときは激怒する。外国と親交を持つこと自体は、時代の流れとして受け入れていたが、外国との通商には慎重な考えを持っていたためである。朝廷内で最も敵に回したくない人物だった開国論者、鷹司政通を失脚させ、主導権を握った(第2回)。
幕府との対立姿勢を深めていった孝明天皇
極度の異国嫌いから、日米修好通商条約に反対した――。そんなイメージばかりが強い孝明天皇だが、実際のところは、条約締結にあくまでも反対を貫くことで、ベテラン関白で開国派の鷹司政通を追い落とすことに成功していた。
うるさ型だった政通の影響力をそぐと、孝明天皇はまさに水を得た魚のごとく、勢いを増していく。幕府が、勅許を得ずに日米修好通商条約をアメリカと締結すると、孝明天皇は「譲位も辞さない」という強硬姿勢に打って出た。
そして幕府首脳陣に抗議する方向で朝議をまとめあげると、「御趣意書」を幕府に下すことを厳命している。御趣意書には、次のような言葉が連ねられていた。
「皇国重大の儀である通商条約に調印してから報告したのは、三月二十日の勅答に背いた軽率な措置であり、不審だ」
3月20日とは、安政5(1858)年に孝明天皇が幕府に勅諚を下して、条約調印に同意しなかった日のことだ。そんな孝明天皇による幕府への明確な抗議に対して、難色を示したのが、関白の九条尚忠である。九条は、幕府との関係を重視して「穏やかな文面に修正してほしい」と、議奏や武家伝奏といった連絡役を通じて天皇に伝えている。
だが、孝明天皇の決意は固く、一歩も譲る気はなかった。関白が納得しないままに、御趣意書が幕府に送付されることとなった。天皇に意見した九条は、事実上の停職へと追い込まれている。こうして孝明天皇は、関白の影響力を廃して、幕府との対立姿勢を深めていくのだった。
しかし、人間は勢いがあるときほどやりすぎてしまい、足元をすくわれてしまうものである。この「御趣意書」は安政5年の干支が戊年だったことから「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれ、大きな問題を引き起こすことになる。
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