大誤解「安政の大獄は井伊直弼の暴走」でない根拠 暴走したのは徳川慶喜の後ろ盾「孝明天皇」
木俣家本の「公用方秘録」によれば、井伊は、側役の宇津木景福に事の成り行きを報告して、こんな苦言を呈されている。
「勅許がない状況で、調印を決断するならば、あらためて諸大名の合意を取らなければならなかったのではないか」
これには、井伊も弱気になってしまい、こう応じている。
「その点に気づかなかったのは無念であり、この上は身分伺いより他はない」
側役の指摘を素直に受け入れて、井伊は「大老を辞するしかない」とまで思い詰めていたのである。そこに強権の姿勢は見る影もない。井伊としても、天皇の意向にできるだけ沿わなければ、という気持ちがあったことが十分に読み取れる。
後先を考えずに暴走をした人間がいるとすれば、それは孝明天皇にほかならない。勅許なき条約に対して、幕府に苦言を呈するのはまだしも、幕府への不信感から水戸藩に直接、密勅を下すのは、明らかに統治体制から外れた行為であった。
井伊が「水戸の策略」と思い込むのは当然
顔を潰されたのは幕府であり、大老の井伊直弼である。井伊は「これは水戸の策略に違いない」と思い込んだ。天皇から水戸藩に直接、命が下されたのだから、経緯を踏まえれば、そう考えるのも当然だ。
「密勅にかかわった者を徹底的に処罰すべし」と、井伊は「安政の大獄」に踏み切った。一橋慶喜を推した「一橋派」の人々や尊王攘夷派の大名、公卿、志士たちが徹底的に弾圧された。その結果、8人が死罪となり、100人以上が処罰されている。
いわば「安政の大獄は、孝明天皇の暴走が引き金となった」といっても過言ではないだろう。幕府の弾圧によって、水戸藩の徳川斉昭は蟄居。その息子である、のちの徳川慶喜までもが、謹慎処分を科せられている。
井伊による弾圧が行われる中、孝明天皇もまた失意の中にいた。あれだけ対立した九条関白との関係を表面上は取り繕いながら、左大臣の近衛忠煕への手紙で「一人ぼっちで、相談相手もなく、心細い……」とこぼしている。
不遇な時期を自ら招いた孝明天皇と、理不尽な運命をいきなり背負わされた徳川慶喜――。しかし、安政7年3月3日に「桜田門外の変」が起きて、井伊が暗殺されると、状況は一変する。
暗いトンネルを抜けて、孝明天皇と徳川慶喜の2人は、政治の表舞台へと再び現れることになるのだった。
(第4回につづく)
【参考文献】
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
日本史籍協会編『一条忠香日記抄』(東京大学出版会)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
福地重孝『孝明天皇』(秋田書店)
家近良樹『幕末・維新の新視点 孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)
藤田覚『幕末の天皇』(講談社学術文庫)
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜 将軍家の明治維新増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)
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