大誤解「安政の大獄は井伊直弼の暴走」でない根拠 暴走したのは徳川慶喜の後ろ盾「孝明天皇」

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井伊は大老に指名された翌日に登城すると、まず堀田のところに行き、「大老を辞退したい」と申し入れている。もちろん、これはポーズにすぎない。堀田が説得してもなお、井伊は辞退の姿勢を崩さないが、将軍から再び請われると、その任務を引き受けている。あくまでも、強く要請される形での大老就任にこだわった。

就任した時点では、井伊がまさか辣腕を振るうとは、誰にとっても予想外だったらしい。岩瀬忠震や松平慶永らは、大老の就任が決まった井伊について、こんな評価を下している。「児童に等しき男」「器量に非ず」……ほぼ無能だと言われているに等しい。

だが、井伊はそんな前評判も何のその、意欲に満ち溢れていた。就任したその日に、御用部屋に老中らを集めて、議論を活発に行って周囲を驚かせている。

また井伊は、大老に就任してすぐ、将軍の後継問題を片付けてしまう。血統を重視して紀州藩主の徳川慶福を推挙。一橋慶喜を推す前水戸藩主の徳川斉昭ら一橋派を抑え込んで、慶福を次期将軍に据えることに成功している。第13代将軍の家定が死去すると、慶福が徳川家茂として、第14代将軍に就任することとなった。

そして次なる大きな課題こそが、条約調印の問題であった。

「勅許を得ずに調印すべきでない」と主張した井伊

井伊直弼には「孝明天皇の反対にもかかわらず、勅許を得ることなく、強引に条約調印を進めた」という印象が強いが、それは誤解である。孝明天皇の強い拒否反応を示したという報告を受けて、幕府は即日に三奉行はじめ関係諸役人を召集し、評議を行うこととなった。そのとき、ほとんどの役人たちは「直ちに調印すべき」と申し立てている。

何しろ、この通商条約については、老中が溜詰・大廊下・大広間の大名とも話し合って決めたものである(第1回参照)。すでに下田奉行の井上清直と、目付の岩瀬忠震らが幕府全権としてハリスと交渉を開始していた。条約の締結については「幕府の専権事項であり、特に勅許を得る必要はないだろう」という意見も多い中、念のため朝廷の意見も聞いたにすぎない。

つまり、そもそも勅許を得る必要などないという意見が大半だった。しかし、その中で「勅許を得ないうちは調印すべきでない」と主張したのが、ほかでもない井伊直弼であった。井伊の慎重論に賛成するのは、若年寄の本多忠徳のみ。このまま「勅許は必要なし」と押し切られてもおかしくはなかったが、井伊は御用部屋に戻って、老中らと再び審議をしている。とにかく慎重には慎重を期す性格である。

話し合ったところ、老中のなかで、堀田と松平忠固は「即時に調印すべきだ」と主張。意見をまとめる立場の井伊は、自分の慎重論を推し通すことなく、妥協案として、全権である井上と岩瀬の両人に、こう伝えている。

「勅許が得られるまではできる限り調印を延期するように、ハリスと交渉してほしい」

現場からすれば難しい交渉になるのはいうまでもない。井上は井伊に「交渉が行き詰まった場合は調印してもよいか」と尋ねて、井伊はこう答えている。

「その際は仕方がないが、なるべく延期するよう努めよ」

受け取り方によっては、井上や岩瀬はうまく井伊から言質をとる格好となったともいえよう。結局、日米通商修好条約は勅許を得ることなく、締結されることになってしまった。

現場の暴走……としてしまうのは、やや酷かもしれない。実際に交渉する、井上や岩瀬からすれば、延期は現実的ではなかっただろう。ただ、同時に「井伊直弼の暴走」とも、経緯を見るかぎりは言えなさそうである。

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