有料会員限定

「海外で売れまくる日本酒」を生み出した獺祭会長の“よそ者人生” 「地元で苦労したから外に出られた」と語る真意、そして事業承継への思い・・・

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

有料会員限定記事の印刷ページの表示は、有料会員登録が必要です。

はこちら

はこちら

縮小
桜井博志(さくらい・ひろし)/1950年山口県生まれ。松山商科大学(現・松山大学)卒業後、兵庫県の酒造会社勤務を経て1976年に家業の旭酒造(現・獺祭)入社。父と対立し2年で退社するも、父の急逝に伴い1984年に出戻り社長就任。2016年、社長を息子に譲り会長に就任(撮影:今井康一)
地元の販売店では相手にされず、杜氏にも逃げられる――。
山口県岩国市の潰れかけた酒蔵で、そんな窮地に直面した3代目が試行錯誤の末に製法を変えながら生み出したのが、今や世界中で売れる日本酒となった「獺祭」だ。日本酒の単独銘柄としての海外販売額は首位級とみられる。
売り上げ低迷に苦しむ酒蔵を受け継いだ3代目の桜井博志会長(74)は、データを基にした緻密な品質管理で、杜氏の勘に頼らない酒造りのあり方を見いだした。桜井会長に、海外展開で成功するまでの軌跡や、今後の事業承継に対する考え方を聞いた。
※このインタビューは後編です。前編「『獺祭』の生みの親が激白!『欧米のまねではだめ』」も併せてご覧ください。

東京でつかむことができたチャンス

――先代の急逝に伴って経営を引き継いで40年、山奥の小さな酒蔵から今では大きく変貌を遂げました。最大の転機はどこにあったと振り返りますか。

いちばんは経営難ですよね。地元のどこでも勝てない、何とかしなきゃいけないという中で、東京市場を狙うしかないと出て行った。東京に行くと、旭富士(獺祭が生まれる前に製造していた銘柄)では相手にしてもらえない。

そんな中で(精米歩合が50%以下の)純米大吟醸にだんだん特化していった。純米大吟醸に特化しながら、データを活用することに気がつく。データを活用して省力化するのではなく、データを活用しながら人を使う作り方に踏み込んでいった。

そうこうするうちに社会が変わって、川上より川下のほうが強くなり、銘柄の選択権をお客さんが持ち始めると、そのマーケットに獺祭の純米大吟醸がばっちりはまった。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD