大誤解「安政の大獄は井伊直弼の暴走」でない根拠 暴走したのは徳川慶喜の後ろ盾「孝明天皇」

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朝廷は、戊午の密勅によって、幕府を批判して外国にきちんと対処するように命じた。そこまではまだよいとしても、あろうことか、密勅を水戸藩にも直接下したのである。このころ、水戸藩藩主の徳川斉昭は条約の調印をきっかけに、大老の井伊直弼と対立。水戸屋敷での謹慎を命じられていたが、密勅には、次のようにも書かれていた。

「徳川斉昭らを処罰したようだが、難局にあたって徳川家を扶翼する家を処罰するのはどうか、心配である」

さらに密勅は、鷹司家を通じて加賀や長州などに、近衛家を通じて尾張や薩摩などへも写しという形で伝達されている。

さすがにこれはやりすぎであった。朝廷から直接、水戸に密勅を下すというのは、幕府の支配体制を考えると、明らかな逸脱行為であることは言うまでもない。また、関白を差し置いて、孝明天皇が朝議をまとめたことも問題視された。孝明天皇は、自分が条約に猛反対していることを対外的に打ち出そうとするあまりに、幕府からの激しい反発を呼び起こすことになったといってよい。

そのころ、幕府は大老に井伊直弼を据え、京都所司代には経験がある酒井忠義を再任し、朝廷への監視を強化していた。酒井は「天皇が関白の人事に口を出すことは控えてほしい」と、連絡役の武家伝奏に念押ししている。そのうえで、老中たちの意見として、幕府寄りの九条を関白に復職させることに成功した。

あれだけ怒りを対外的に表明していた孝明天皇は、幕府の反撃を受けて、矛を収めるしかない状況に追いやられてしまった。その失速を決定づけたのは、大老の井伊直弼による「安政の大獄」である。

慶喜を嫌う13代将軍から大老に指名された井伊

時計の針を少し戻そう。安政5年3月20日、老中首座の堀田正睦は、日米通商修好条約について孝明天皇から許可を得るはずが、「再度諸大名の意見を伺うように」と差し戻されてしまった。

勅許を得られなかった堀田が失意の中、江戸に帰ったところ、さらにショックな出来事が待ち受けていた。大老職に彦根藩主の井伊直弼が就任するというのである。

堀田は大老として福井藩主の松平慶永を、そして次期将軍として徳川慶喜を推薦していたが、第13代将軍の徳川家定から、その意向をまるで無視されたことになる。それも無理はない。家定は慶喜のことを心底嫌っていたのである。まだ自分が元気なうちから、後継者として注目される慶喜のことが、家定はどうにも気に食わなかった(「名君?暗君?『徳川慶喜』強情だけど聡明な魅力」参照)。

周囲で次期将軍をめぐる思惑が交錯する中で、家定によって大老に指名されたのが、井伊直弼であった。拝命された井伊は「時節といい、大任といい、恐れ入る」と言いながらも、「粉骨砕身して忠勤する」と大老の職を引き受けている。

井伊直弼といえば、日米通商修好条約を強引に締結し、「安政の大獄」で反対勢力に弾圧を行った強権政治でよく知られている。だが、その実像はといえば、意外なほどに慎重な性格だった。

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