「ヤモリ」の陰口に岩倉具視が見せた「衝撃の逆襲」 天皇にも将軍にもひるまない恐るべき突破力
下級公家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視は、「麒麟児(才能にあふれて将来が期待できる若者」として見初められ、岩倉具慶の養子として迎えられた(第1回)。岩倉が中央政界に自分の存在を知らしめたのが「廷臣八十八卿列参事件」だ。安政5(1858)年3月12日、88人もの公家が関白の九条尚忠邸へ押しかけて抗議した運動を主導(第2回)。その後は、朝廷と幕府の関係強化へ奔走する(第3回)。
「公武合体」しか活路がなくなった幕府
歴史的な出来事は一見、バラバラに起きているように見えても、すべて連動している。日米修好通商条約の調印に孝明天皇があれほど抵抗しなければ、大弾圧「安政の大獄」は起きなかったし、そもそも、老中首座の堀田正睦が外されて、大老の井伊直弼が台頭することもなかった。その井伊直弼も歴史の表舞台に立ち、強権を振るうことがなければ、暗殺されることもなかっただろう。
しかし現実には、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸藩からの脱藩者17人と薩摩藩士1人の手によって、井伊直弼は暗殺されてしまう。現役大老の暗殺という衝撃的な出来事は、幕府の弱体化をあらわにした。このことが、外様藩である薩摩や長州が中央政界へ進出する契機となる。
悲惨なのは幕府である。もはや朝廷の後ろ盾なくしては権威を保てなくなり、朝廷と結ぶ「公武合体」に活路を見いだすほかなくなってしまった。
もし孝明天皇が幕府から権力を奪うことをもくろんで、条約調印に反対したのであれば、すべて目論見通りにいったことになる。しかし、孝明天皇にそのような野望はない。ただ幕府に従来どおり、鎖国体制を維持してほしいだけだ。
そんな孝明天皇にいら立ったのが、「安政の大獄」を指揮して「青鬼」と呼ばれた老中の間部詮勝である。「天皇の言い分は、勝算のない戦争をせよと同じではないか」と反論しているが、もっともだろう。
それを受けて、孝明天皇は「通商条約調印のやむえざる事情はわかった」と一定の理解を示している。まだ井伊が暗殺される前のことで、幕府に勢いがあったころのことである。
それでも攘夷の姿勢自体は、崩すことがなかった孝明天皇。井伊直弼の暗殺後、幕府の態度は一転し、朝廷へとすり寄ってきた。
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