「ヤモリ」の陰口に岩倉具視が見せた「衝撃の逆襲」 天皇にも将軍にもひるまない恐るべき突破力

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早速、老中首座の久世広周と老中の安藤信正が、天皇の実妹である和宮の将軍家茂への降嫁を要請してくるが、「真意がよくわからない」と孝明天皇は断っている。追い詰められた幕府の情勢を、それほど深く理解はしていなかったらしい。

コミュニケーション不全が事態を複雑にしている……。そんなときこそ、あの男の出番である。アウトロー公家、岩倉具視は、安政4(1857)年12月に近習に就任して以来、天皇のそばにいた。

岩倉は筆をとって「和宮御降嫁に関する上申書」を書きあげた。幕末の情勢をつかみきれていない孝明天皇に、公武合体を決断させるべく、説得役を買って出たのである。

孝明天皇が和宮降嫁に反対した理由

妹の和宮が将軍の家茂のもとに嫁ぐことに、孝明天皇が反対したのには、いくつかの理由がある。といっても、通商条約を拒否したときと同様に、政治的な深謀遠慮があったわけではない。孝明天皇はあくまでも目の前のことを考えて、反対したにすぎない。

1つには、和宮はすでに有栖川宮(熾仁親王)と婚約しているということ。また、和宮自身が「蛮夷来集」する関東を怖がっている、というのが、拒絶した理由だった。

孝明天皇はこの返事の内容で、万延元(1860年)年5月4日、関白に宛てて手紙を出している。そのときに「条約に関しては、引き戻しを猶予しているだけで、自分の意見は変わっていない」と念押しすることも忘れなかった。それでいて「カドが立つことのないように幕府に返答してほしい」と、厄介なリクエストもしている。

そんな気遣いがあったとて、幕府からすれば、危機的状況に変わりない。公武合体は行き詰まったうえに、相変わらず実現不可能な攘夷を求められて、八方ふさがりになった。

そんな中、岩倉具視は「和宮御降嫁に関する上申書」で、孝明天皇に懇切丁寧に状況を説明している。この上申書は、岩倉が天皇に諮問されて答えたもので、大意は以下のようなものだ。

「すでに幕府は朝廷の威光を借りざるを得ない状況にある。外圧にさらされている国家の危機を救うためには、幕府から朝廷に政権を取り戻し、人々の意見を救い上げる国家を創り上げる必要がある。だが、弱体化する幕府に代わって覇権を握ろうとする大名が出てこないように、ことは慎重に行わなければならない。

まずは朝廷と幕府はともにあることを全国にアピールしながら、政策の決定は朝廷が行い、幕府が執行するという形を作り、『名を捨てて実をとる』のがよい。その第一歩として、幕府に攘夷の実行を約束させたうえで、和宮の縁組を許可してはいかがでしょうか」

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