「ヤモリ」の陰口に岩倉具視が見せた「衝撃の逆襲」 天皇にも将軍にもひるまない恐るべき突破力

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岩倉は数多くの意見書を書いており、『実記』や『岩倉具視関係文書』には、60以上が収録されている。岩倉が「具瞻」という名を与えられたのに「画数が多い」と文句をつけて「具視」という名にしたという逸話を紹介したが、多くの意見書を書くにあたっては、その実用性が活かされたことだろう(第1回参照)。

岩倉が最初に出した政治意見書「神州万歳堅策」は、九条邸に押しかけた2日後に、天皇へ提出したものである。このときにすでに岩倉は、朝廷と幕府の協力体制を主張。条約の調印は引き延ばしつつ、欧米諸国の情勢を研究し、国内体制の整備と武備拡充のための財政問題に取り組むべしとまで言及している。何という先見性だろうか。

そんな岩倉の数多い政治意見書のなかでも「名作」とされているのが、上記で要約した、孝明天皇に公武合体を説いたものだ。確かに、取り巻く政治状況を正確にとらえつつ、朝廷がとるべきポジションについて、説得力ある論理構成で綴られている。

かつて岩倉は「安政の大獄」の風が吹き荒れるなか、京都所司代を務める酒井忠義を訪ねて、コネクションを作った(第3回参照)。天皇と同じく朝廷に身を置きながら、岩倉が幕府の状況を把握して先を見通すことができたのは、京都所司代とのパイプを最大限に活用したからだった。

すべては岩倉の思惑どおりに進んだ

岩倉の上申書により、幕府の状況を理解した孝明天皇は万延元(1860)年6月20日、九条関白に宛てて、次のように返事をしている。

「もともとこの縁談に不承知だったわけではない。幕府が条約の引き戻しに取り組むならば、和宮を説得して承知させる」

九条関白がその旨を幕府に書状で伝えると、幕府側は「7~10年以内には外交交渉や武力を用いてでも、破約攘夷を実行する」と回答。「破約攘夷」とは、条約を破棄して、攘夷を実行するということだ。攘夷の実行に何のあてもないにもかかわらず、幕府も随分と大胆なことを引き受けたものだが、それだけ追い詰められていたということだろう。すべて岩倉の思惑どおりにいったといってよい。

幕府の回答を受けて、孝明天皇は和宮を説得。8月16日に家茂との縁談を承知させている。いよいよ公武合体は実現へと向かうことになった。

「廷臣八十八卿列参事件」では、九条関白に物申したことで名を馳せた岩倉だが、それだけならば、ただのうるさ型で終わっていただろう。この難しい公武合体を成立させたことで、岩倉は幕府と朝廷の間で、調整役として存在感を大いに発揮した。

また、孝明天皇が身分や地位にこだわらず、近習の岩倉具視に意見を求め、それを受け入れて実践したことにも着目したい。孝明天皇は頑固な性格で暴走することもあるが、無位無官である薩摩藩の島津久光に意見を求めたり、のちに禁裏御守衛総督となる徳川慶喜の説得に応じたりと、重要な局面ほど、他人の言をうまく取り入れるところがあった。

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