「ヤモリ」の陰口に岩倉具視が見せた「衝撃の逆襲」 天皇にも将軍にもひるまない恐るべき突破力
和宮が縁談を内諾した翌年にあたる文久元(1861)年10月20日、和宮は桂御所を出て、江戸に向かうことになり、岩倉と、その同志である公卿の千種有文も同行している。岩倉は婚儀の支度を整えるなど、公武合体の中心人物として、役割を果たしていた。
岩倉と千種は江戸に上ると、久世と安藤の両老中と対面。そして江戸市中で流れたあるうわさについて問い詰めている。そのうわさは次のようなものだった。
「権関白がその配下のヒゲ和尚とヤモリを使って幕府から賄賂をとり、所司代が味方となって、和宮を人質として天皇を廃するという幕府の悪だくみに協力した」
「権関白」とは議奏首席を務めて「陰の関白」と言われた久我建通のことである。その配下とされた「ヒゲ和尚」とは千種のこと。そして「ヤモリ」は岩倉のあだ名だった。
ひどい言われようだが、時代の趨勢も読めずに陰謀論を持ち出す、取るに足りない人間は、いつの時代にもいるものである。これには孝明天皇も激怒した。幕府に請われて、妹を説得までしたのだから、当然だろう。
将軍・家茂に事実上の「詫び状」を書かせた
岩倉はこのあらぬうわさを理由にして、老中たちを追い詰めていく。「幕府の二心ではない」ということを誓書で示すように迫ったのである。しかも「老中だけではなく、将軍の誓書もなければ、天皇の怒りは解けない」として「将軍の家茂に直筆の誓書を書かせよ」と強硬に主張した。
そうはいっても何も幕府が主導して、このうわさを流したわけではない。前例のない要求に、さすがの老中たちも拒絶したが、岩倉はこういうときに絶対に折れない。かつて九条関白の邸宅に押しかけて、会うまで帰らなかったときと同じだ。
もちろん、岩倉にはいつも勝算がある。ようやくこぎつけた公武合体だ。それは岩倉にとっても同じだったが、持ちかけてきたのは幕府のほうである。婚礼前のゴタゴタは避けたいとはずだと、老中たちの胸中を見透かしていた。
岩倉の粘り腰が3日にわたって続き、老中たちは音を上げた。岩倉は、家茂に直筆で誓書を書かせることに成功。うわさはでっち上げであり、「心底これなし」と家茂に否定させている。朝廷が完全に幕府の上に立った瞬間でもあった。
岩倉が執念で手に入れた将軍家茂の直筆による事実上の「詫び状」は、12月25日に京に帰った千種によって、孝明天皇に呈上された。岩倉はといえば、実母が亡くなったため、喪に服して、翌年2月7日から参朝。孝明天皇は待ちわびていたのだろうか。2月11日、岩倉をわざわざ召して、「勲功の段感悦す」と労っている。
こうして強い政治的な影響力を持ちつつあった岩倉のもとに、ある男が訪ねてきた。文久2(1862)年5月6日のことである。その運命の日のことを男はこう振り返っている。
「岩倉と面会するように命じられたので、少しずつ押し切って建白を行った」
岩倉を粘り強く押し切ってまで意見を申し立てるとは、いったい何者であろうか。その人物こそが、薩摩藩の大久保利通だった。
(第5回につづく)
【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)
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