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中国大陸で軍資金を生んだ「預け合い」のカラクリとは?日本の戦費調達は国債だけではなかった…国内より苛烈なインフレをもたらした「錬金術」

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中国聯合準備銀行の銀行券(編集部撮影)

日本は第2次世界大戦の戦費をどうファイナンスしたのだろうか。

英米と敵対し外債発行が不可能な状態で、国債の国内発行だけでは足りなかった。中国大陸では円と切り離された形で現地通貨での資金調達が行われた。これを支えたのが「預け合い」という手法である。

第2次世界大戦が終わって間もない1945(昭和20)年10月、なぜ日本は経済的に無謀な戦争を始めて、そして敗れたのか、焼け野原となった首都東京の景色を前に、日本銀行総裁渋沢敬三は後世のため戦前の金融政策を正しく記録すべきと考え、当時日銀顧問だった東京帝国大学大内兵衛博士にこの仕事を委ねた。

「国債の日銀引受」始めた高橋是清は悪者か

大内は日銀調査局別働隊として特別調査室を設けると約3年の年月をかけて『満州事変以後の財政金融史』をまとめあげた。

高橋是清(たかはし・これきよ、1854〜1936年)/総理大臣に日銀総裁、大蔵大臣は7回務める波乱万丈の人生。アメリカ留学後、文部省・農商務省に出仕。特許局長の職を辞して銀山開発のためペルーにわたるが無一文に。日銀に本館の建築事務主任として入行。副総裁となり日露戦争の外債募集に手腕を発揮。横浜正金銀行頭取などを経て1911年日本銀行総裁。政界に転じ1921年に首相就任。昭和恐慌時に蔵相として積極的な財政政策を行い「高橋財政」と呼ばれる。軍事費抑制方針を示し2・26事件で暗殺された(写真:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

そこでは高橋是清は、膨張する軍事費や昭和恐慌時の匡救事業のために日銀引受の発案実行を始め、その後の膨大な軍費の調達を可能にした悪者で、「膨大な公債を発行したにもかかわらず増税もせず、国の借金は雪だるまのように膨らんでいった」と断じられた。今ではダルマさんという愛称とともに好意的な印象を持つ高橋是清も戦後すぐはこうした評価だったのだ。

だがこうした高橋是清に対するネガティブな評価は時代背景の変化や高橋是清の業績に対するアカデミックな研究がすすむにしたがって変化して、今では1930年代の日本を当時の世界恐慌からいち早く回復させた財政金融政策の側面が評価されるに至っている。

高橋は日銀引受をあくまで「一時の便法」として、買い入れた国債を市場環境に合わせて順次市中に放出していた。実際には高橋が蔵相だったときには日銀で引き受けられた国債の85%が市中に売り出されていたのであって、国家債務が雪だるまのように膨らんだのは2・26事件での高橋の死後のこと、翌1937年の盧溝橋事件以降から第2次世界大戦までの期間である。

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