「米不足」ゆえに至った太平洋戦争への回帰不能点 真珠湾攻撃の半年前に「仏印進駐」を決めた理由

太平洋戦争にいたる原因のひとつが、日本の食糧確保だった。このことは、どれだけ知られているのだろうか。
太平洋戦争への回帰不能点として、1941年7月の日本軍の南部仏印進駐があった。
進駐の理由について、歴史教科書の記述は出版社によって異なるが、「東南アジアの石油資源を確保するため、7月にフランス領インドシナ連邦南部への進駐(南部仏印進駐)をおこなった」(『歴史総合』2022年、山川出版社)など、南方地域の資源確保、なかでも石油に言及したものが多い。
南進論、いわゆるABCD包囲網という視界で見れば、妥当なのだろう。ただ、回帰不能点としての南部仏印進駐からみるとき、食糧資源、なかでも仏印(仏領印度支那、現在のベトナム)と泰(タイ)の米確保があったことを、忘れてはいけない。
武力を使ってでも仏印南部まで軍を進める「南方施策促進に関する件」(以下、促進に関する件)を、日本が決めたのは1941年6月25日。
大本営政府連絡懇談会の事務方はその日の業務日誌に、「日章旗 南仏ノ空ニ愈々(いよいよ)ヒルガエルノ秋(とき)モ近シ 逐次南進ノ歩ヲ進ム 芽出度(めでた)――」と残した。東條英機陸相は、これを「大決定」と表現した。
以下、仏印米の確保に焦点をあて、進駐策決定との関係を明らかにしたい。
不足分の米を確保できなければ「戦ハズシテ危機」
日本が南部仏印まで軍を進めた理由は何か。
「促進に関する件」の上奏御説明もあるが、より具体的な理由を大本営陸海軍部が、「軍事上経済上政治上ノ見地ヨリ北部仏印ト共ニ南部仏印ニ速ヤカニ所要兵力ヲ進駐セシムルノ絶対必要ナル理由」(6月23日付・極秘)で整理している。
数ある理由のなか、食糧問題は「経済上ノ見地ヨリ」で、次のように言及されている。
「就中帝国食糧問題ノ中心タル米ハ其不足分九百万石ハアヘテ之ヲ仏印泰ニ依存セザルベカラズ若シ之ヲスラ確保シ得サルニ於テハ帝国ハ戦ハズシテ食糧問題ニ関シ一大国内危機ヲ招来スルニ至ルヘシ然ルニ……(以下略、太線強調は筆者)」
つまり、仏印と泰で不足分のコメを確保できなければ、国内に危機が来ると危惧していたのである。
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