「貯蓄から投資へ」の掛け声が「株忌避」に終わった80年前の顛末...戦時介入で時価総額の32%を抱えた政府、歪んだ市場が終戦前にうごめいた

太平洋戦争の終戦から80年が経ち、株式市場の風景は大きく変わった。金融制度の高度化に加え、取引所での売買の電子化により、あらゆる情報が即時に株価に反映されるようになっている。
一方、政府などが株式市場の動向に神経質になり、時として株価への介入を繰り広げたという点では、太平洋戦争期も現代も同じである。
1940年代の場合には、政府系金融機関などが株式買い上げの主役だったが、2010年代の場合は日本銀行がその役割を果たしたという違いはあるものの、社会の安定を保つためにも、株価の維持は政府の優先事項の一つと言えよう。
現在、日本銀行は、指数連動型上場投資信託(ETF)を介して、日本株式市場の時価総額の7%程度を保有しているが、金融政策の正常化を推進するうえで、この処理が大きな課題になっている。それだけに、太平洋戦争期の株価介入の帰結が気になってくる。
日本政府はどのように株式市場に介入し、株価はどのように推移して、買い上げられた株式は最終的にどのように処分されたのであろうか? この点に着目し、太平洋戦争期の株式市場介入について整理してみたい。
当初は民間主導だった戦前の株価介入
2010年代に日本銀行がETFを買い付けて株式市場に資金を投じたのと同じように、戦前においても、株式市場の安定化を図るためにさまざまな資金注入が行われた。
明治期の日本銀行は、割引手形の担保として受け入れた株券の担保価格を操作することで間接的に関与することはあったものの、直接的な資金の出し手になったわけではない。また、昭和期に始まった株価維持の主体は、主に民間部門によるものであった。
1930年10月には、生命保険会社により共同で設立された生保証券、そして1935年8月には第二次生保証券が設立され、さらに東京株式取引所関係者等は、1937年9月に大日本証券投資会社を、1940年9月には日本証券投資会社を設立している。
これらの株価維持機関は、株式市場との関係が強い団体や人々による設立であり、日本銀行などから資金を借り入れて、主力株を購入しているため、日本銀行は間接的な役割を果たしたわけである。
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