公家なのに超奇抜「岩倉具視」その面白すぎる素顔 幼少期からやんちゃで物言いもストレート

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13歳のころ、岩倉は儒学者、伏原宣明(ふせはら・のぶはる)の下で、学問を修めていた。ところが、ある日のこと。歴史書『春秋左氏伝』の輪講の前に、同窓の中御門経之に向かって、岩倉が「講義をすっぽかして、将棋の勝負をしよう」とよからぬことを言いだした。

あきれた経之から「役に立たない遊びに興じていられるか!」となじられると、岩倉は「『春秋左氏伝』の言いたいことは、もうだいたいわかった」と生意気なことを笑って言いながら、こう続けたという(『岩倉公実記』)。

「古文の字句のことを細かく調べるよりも、将棋を指してお互いに知略を磨いたほうがよいではないか」

名前の字角が多すぎると訴えたときと同じく、このときも岩倉は実用性を重視し、古文の解釈より将棋をしているほうがよいと主張したのである。

偉かったのは、このことを小耳に挟んだ伏原宣明だ。講義をサボろうとしたことをとがめるのではなく、伏原は親しい間柄にある岩倉具慶に「この児は麒麟児だ。養子にもらってはどうか」と勧めている。

麒麟児とは「才能にあふれて将来が期待できる若者」のこと。いわば「神童」である。それを聞いた具慶は、堀河家に申し入れて、岩倉を実子としてもらい受けることを決意。具慶から新しい名である「具視」を与えられると、岩倉は従五位下に叙せられて、昇殿を許されている。

翌年には、朝廷に宿直勤番をすることになった岩倉。思わぬことから目をかけられて、一人前の公家として生きる道をつかみとることになった。

賭博場を開いて生活の足しにしていたという説も

とはいえ、その後も、岩倉の公家らしからぬ振る舞いは続く。一説によると、博徒に邸を提供して賭博場を開いて、稼いだ銭を生活の足しにしていたとも言われる。岩倉であればさもありなん、と思わず納得してしまう。

歴史の表舞台で活躍するには、何かしらのきっかけが必要だ。岩倉の場合、伏原宣明と岩倉具慶に見出されることになったわけだが、もう一人、岩倉を引き上げたキーパーソンが、関白の鷹司政通である。

鷹司政通は、内大臣、右大臣、左大臣を経て、岩倉が生まれる2年前の文政6(1823)年に関白となった。下級の公家に生まれた岩倉とはまったく異なり、天皇家と同じ血筋を持った鷹司。ベテラン関白として、孝明天皇をも押さえつけていた。政通について、孝明天皇はこう評している。

「私が一言いえば、政通はその何倍も物を言う」(『孝明天皇紀』)

そんな我の強い政通に岩倉がどうやって取り入ったのかといえば、「和歌」である。岩倉は嘉永6(1853)年1月に、政通のもとで歌道を習うべく門人となった。

次ページ目的はもちろん和歌ではない
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