良策のはずが墓穴「岩倉具視」に学ぶ想定外の怖さ いくら先見性が凄くても自分の没落は見通せず

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朝廷が政策決定をして、幕府が実行する――。岩倉は公武合体によって、そんなシステムを目指していたが、その前に幕府が外様の有力諸藩に倒されることを危惧していた。岩倉の政治意見書では、孝明天皇に何度となく警告を発している。

「有力大名が公家と接触して京に入ってくることは混乱の一因になりかねない。伊達や島津のような外様雄藩を頼って、幕府に対抗することは決して考えてはならない」(「神州万歳堅策」)

「覇権を掌握しようと策略を巡らす大名が出てこないとは限らない」(「和宮御降嫁に関する上申書」)

だが公武合体を果たしたのち、有力藩をただ敵視していた岩倉の胸中は、徐々に変化していく。朝廷中心の公武合体を実現させるためには、むしろ有力諸藩を利用したほうが吉と、岩倉の政治的勘が働いたようだ。将軍の徳川家茂をも従わせたことで、幕府の弱体化が思った以上に進んでいると実感し、より急進的な方法へと舵を切ったとも考えられる。

志をともにするならば、先入観を捨てて手をとるべし。下級公家からはい上がった、手段を問わない岩倉らしい「変節」である。

109人の藩兵を率いて入京した島津久光の狙い

幕府の弱体化により、朝廷の存在感が強まる中、文久2(1862)年4月16日、薩摩藩の島津久光が総勢109人の藩兵を率いて入京してきた。いったい、何をしにきたのか。

上京の趣旨は、大久保利通を介して、朝廷側にあらかじめ伝えていた。警備が手薄な朝廷を守りたいこと、そして、朝廷が政治を主導するために幕政に改革を促したい、というのが、久光の要望だった。

久光は並々ならぬ意欲にあふれていたに違いない。というのも、この上京について、久光は初対面の西郷隆盛から「今、軍勢を率いて京都に上れば、大混乱になる」と反対されたばかりか、「あなたは田舎者だから……」と暴言を吐かれるという事件が起きた。

のちに岩倉をも驚愕させる大胆不敵な西郷らしい振る舞いだが、久光が屈辱に震えたことは言うまでもない。西郷と対立を深めながら、意地になって上京を決行した久光。何としてでも、中央政界へのデビューを成功させなければならなかった。

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