良策のはずが墓穴「岩倉具視」に学ぶ想定外の怖さ いくら先見性が凄くても自分の没落は見通せず
岩倉の転落を招いたのは、各地で起きた尊王攘夷の台頭である。尊王攘夷派は、幕府の権力を回復させる政策として公武合体を激しく批判。文久2(1862)年1月15日には、公武合体を推進した老中の安藤信正が水戸浪士らに襲撃されてしまう。
さらに4月、開国と公武合体を唱えた土佐藩の吉田東洋が、尊王攘夷派に暗殺された。薩摩藩でも尊王攘夷派の有馬新七らが京都所司代を襲撃すべく京に集結を呼びかけるなど、いよいよ混沌とした雰囲気となってきた。長州藩は7月、藩論を尊王攘夷に決定し、攘夷活動の中心となっていく。
そんな状況だからこそ、薩摩藩の島津久光は取り締まりの役目を与えられたわけだが、尊王攘夷派は盛んに公家に接触しては、自分たちの仲間に引き入れようとし、その勢力は拡大するばかりだった。
それも当然のことである。孝明天皇自身が攘夷を望んでおり、幕府はそれを約束したにもかかわらず、一向に攘夷がなされる様子はない。幕府に攘夷を約束させたのは、もともと岩倉が孝明天皇に提案したことだ。そのことが、まさか攘夷派の台頭を生み出し、自身を追い詰めることになるとは、さすがの岩倉も読めなかったようだ。
尊王攘夷派の標的になった岩倉
公武合体の中心的な役割を果たした岩倉は、尊皇攘夷派にとって「斬奸」、つまり「悪者を斬り殺すこと」の標的となった。ただならぬ雰囲気に、和宮降嫁に関係した近臣たちは天皇に辞表を提出。8月28日、岩倉は千種有文や富小路敬直らとともに蟄居が命じられ、辞官・落飾を余儀なくされている。岩倉は、あれだけ苦労した得た官職を辞して、一切の地位を失うことになった。
だが、それでもまだ足りないとばかりに、土佐藩の武市半平太らは「岩倉に対する朝廷の処分が寛大すぎる。遠島にするべし」と、三条実美らに訴えている。
9月12日の夜には、岩倉の邸内に次のような怪文書が投げ入れられた。
「岩倉は災いがもたらされるように祈祷し、天皇を毒殺しようと計画している」
岩倉といえば「孝明天皇を毒殺した疑いがある」と今でも一部でささやかれているが、この時点で、岩倉への誹謗中傷がすさまじかったことがわかる。怪文書では、こんな脅迫も行われている。
「13日、14日中に洛中を立ち退かなければ、天誅を加えて、首を四条河原に晒す」
憎悪が憎悪を呼び、大きな恨みとなって、すべて岩倉へとぶつけられたといってよい。岩倉は「夢とも現実ともいえない」と日記に記し、こう思いをにじませている。
「無念の次第やるかたなし」
岩倉は霊源寺に身を寄せたが、一睡もできなかった。「うつうつとして心神穏やかならず」と日記に心情を吐露している。心穏やかではないのは、霊源寺の寺主も同じである。そんな厄介な男が転がり込んできたら、たまったものではない。岩倉は霊源寺からも立ち去らざるをえなくなった。
文久2(1862)年10月、岩倉は辺鄙な岩倉村にたどり着く。家は狭く、柱は傾き、壁も破れたボロ屋である。それから実に5年もの歳月を、岩倉はここで過ごすこととなった。
(第6回につづく)
【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)
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