大久保利通と岩倉具視を急接近させた難敵の正体 幕末の実力者たちですら手を焼いた男とは?
下級公家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視は、「麒麟児(才能にあふれて将来が期待できる若者)」として見初められ、岩倉具慶の養子として迎えられた(第1回)。岩倉が中央政界に自分の存在を知らしめたのが「廷臣八十八卿列参事件」だ。安政5(1858)年3月12日、88人もの公家が関白の九条尚忠邸へ押しかけて抗議した運動を主導(第2回)。その後は、朝廷と幕府の関係強化へ奔走(第3回)。「和宮降嫁」による公武合体を実現した(第4回)。ところが、台頭する尊王攘夷派の標的となって失脚。岩倉村での生活を余儀なくされる(第5回)。
蟄居から3年経って政治活動を再開
策略家として知られる岩倉具視だが、意に反して停滞した時期もあった。岩倉村での5年にもわたる蟄居生活である。岩倉は、幕府と朝廷が協力する公武合体を推進したことで、開国を進める幕府側の人間とみなされてしまい、「異国を打ち払うべし」という尊王攘夷派から目の敵にされた。
「天誅を加えて、首を四条河原に晒す」
ここまで言われれば、身の危険を感じるのは当然のことだろう。また、それを実際にやりかねないのが、当時の過激な尊王攘夷派である。岩倉具視は文久2(1862)年10月から、岩倉村の粗末な家屋で過ごすことを余儀なくされた。
しかし、大きな挫折の経験は、それだけ人を強くする。20世紀を代表するアメリカの作家、チャールズ・ブコウスキーは、肉体労働に従事しながら、雑誌に何度投稿しても掲載してもらえなかった。それでも作家になることをあきらめず、こんな言葉を残している。
「小さな種火を残し、その火を絶やさないで、種火さえあれば、また燃え上がるから」
岩倉村で、しばらくは大人しくしていた岩倉もまた、種火をくすぶらせていた。蟄居から3年が経った慶応元(1865)年、攘夷思想の勢いが衰えてくると、岩倉は政治活動をやおら開始する。岩倉の種火を燃え上がらせようとしたのは、宮廷関係者である松尾相永(まつお・すけなが)と藤井九成(ふじい・きゅうせい)だ。
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