大久保利通と岩倉具視を急接近させた難敵の正体 幕末の実力者たちですら手を焼いた男とは?
天然痘による病死だったが、病状には回復傾向も見られていただけに、暗殺説が密かにささやかれた。岩倉も容疑者の1人だったが、それにしては、あまりにも計画がずさんであり、孝明天皇を亡き者にしたところで、朝廷の体制もまったく整っておらず、岩倉にメリットは少ない。
孝明天皇の死を知った岩倉は、知人宛の手紙でこう感情を吐露している。
「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」
岩倉は、あくまでも孝明天皇を中心とした政治体制を考えていたが、すべては画餅に帰した。15歳の幼い明治天皇と、改革も進まずに人材もいない朝廷では、岩倉が描いた構想はとても実現できそうになかった。村にこもりながら、岩倉はさぞ悶々としたことだろう。
慶喜の勢いに募る危機感
一方で、最大の庇護者を失ったかに見えた徳川慶喜が、孝明天皇亡き後に、意外な躍動を見せる。何しろ、もう異国嫌いの孝明天皇に遠慮する必要もない。慶喜は、引き延ばしてきた兵庫開港を「将軍の責任を持って断行する」と確約。同席すらしてしない明治天皇をさしおいて、慶喜が朝議を思いのままにし始めた。
またもや、朝廷が軽視されて、幕府が政治を主導する世になるのか――。岩倉は慶喜の勢いに、こう危機感を募らせている。
「今の将軍慶喜を見ると、果敢、決断、大志、どの点をとっても軽視できない」
まったく同じ気持ちで慶喜の台頭を苦々しく思っていたのが、薩摩藩だ。兵庫開港にいたっては「慶喜の独断を許すまじ」と、島津久光が抵抗を見せたが、薩摩藩はもともと開国派だったこともあり、慶喜に矛盾を突かれて完敗。薩摩藩邸で待機していた大久保利通は、大いに悔しがった。
「大樹公(慶喜)は、暴力をもって摂政たちを脅迫した」
共通の敵を持つ者同士は、そのつながりを強くする。覚醒した徳川慶喜の前に、岩倉具視と大久保利通は同じ方向を向く。
小さな種火がまもなく、燃え上がろうとしていた。
(第7回につづく)
【参考文献】
多田好問編『岩倉公実記』(岩倉公旧蹟保存会)
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
大久保利謙『岩倉具視』(中公新書)
佐々木克『岩倉具視 (幕末維新の個性)』(吉川弘文館)
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