大久保利通と岩倉具視を急接近させた難敵の正体 幕末の実力者たちですら手を焼いた男とは?

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そこで岩倉は慶応元(1865)年の秋、薩摩藩に政治意見書を提出することにした。接触のあった薩摩人を通して「小松帯刀と大久保利通に渡してほしい」と依頼している。

その意見書は「叢裡鳴虫(そうりめいちゅう)」とよばれるもので、岩倉が再び政治に関与しようとした重要な文書として知られている。自分を「叢(くらむら)の中で鳴く虫」に例えて、国政への自説を披露した。

「朝廷と幕府が大綱を起草して、諸藩主を招集したうえで意見を述べさせて、最終的に天皇が裁可するという体制を作るべきだ」

さらに岩倉は「続・叢裡鳴虫」という意見書まで書いて、改革が進まない朝廷を激しく批判している。岩倉はいつも筆を振るうことで、政治への影響力を保ってきた。有力な薩摩藩と協力することで、再び国政の変革にあたれるはずだと、考えていたことだろう。

しかし、岩倉の政治意見書は、空振りに終わってしまう。薩摩藩から目立った反応はなく、幕府の主張通りに、第2次長州征討は断行されることになった。そればかりか、孝明天皇があれだけ拒否していた外国との通商条約まで、それを認める勅許を出さざるをえない状況に、朝廷は追い込まれてしまう。

存在感をいかんなく発揮していた徳川慶喜

朝廷、とりわけ孝明天皇にとって不本意だったはずの条約の勅許が、なぜ行われたのか。存在感をいかんなく発揮していたのは、将軍の座に就く前の徳川慶喜である。慶喜は朝廷を守る禁裏守衛総督の立場でありながら、「もう辞めたい」と漏らす将軍の家茂を思い、幕府側に立ち、朝廷にこう迫った。

「これほど申し上げても朝廷が条約を許可しないならば、私は責任を取って切腹します」

岩倉から政治意見書でどれだけ呼びかけられようが、薩摩藩の島津久光も大久保利通も、慶喜の強硬な姿勢に押されっぱなしで、それどころではなかったのである。

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